7 催事 肌感で楽しむ

杉本美術館 最終展『絵に生きた画家 杉本健吉』

溢れる郷土愛 志賀直哉の警告

(愛知県美浜町、9/16~10/31)

  知多半島にある杉本美術館が10月31日で閉館になると新聞で知り、最終展『絵に生きた画家 杉本健吉』を23日に観てきた。明治生まれで98歳の長寿を全うした「健吉さん」の画才は多彩な分野に結実し、名古屋への郷土愛がうれしい輝きを放っていた。大作家の吉川英治の証言や、志賀直哉からの「通俗を脱せよ」の警告にもしびれた。作品群は次にいつどんな形で公開されるのだろうか。

(▲ロビー壁の看板 ▼作品写真はパンフから)

■油絵から曼陀羅、緞帳、企業ロゴまで

 こんな分野にまで画才を展開していたなんて—。健吉さんが手がけた作品世界は広くて、多様すぎる。展示室は5つ。行ったり来たりを何度したろうか。全容をつかんだ気になるのに楽に1時間はかかってしまった。

<手法> 油絵、水彩、墨絵、木炭画、陶芸、木工
<形式> キャンバス、小説の挿絵、掛け軸、曼陀羅図、壺、緞帳、ロゴ
<対象> 花、人物、風景(地元、海外)、大和(奈良)、宗教世界

(▲自画像)

 色彩に特定の好みが反映されているとも思えない。変幻自在。五彩を駆使した『獅子文壺牡丹』もあれば、墨色だけの『阿修羅像』もある。

 つかみどころがない。あるいは融通無碍、天真爛漫と評すればいいのか。「けれんみ」はわずかに感じるが、嫌味は残らない。

 健吉さんは1905(明治38)年、名古屋の生まれ。晩年の風貌は、明治43年生まれのぼくの亡父を想起させる。武骨で生真面目…。そんな印象を勝手に描きながら健吉さんの経歴と作品を追っていった。

■故郷を愛して99年 吉川英治の証言

 健吉さんは2004年に98歳で亡くなるまでずっと名古屋で暮らした。しかも地元の街の風情をたくさん描き、あちらこちらに「作品」を残してくれた。その足跡を追うと、展示物にこんな文章を見つけた。

 名古屋は健吉さんの郷里なので市の図書館の壁画から駅長室の壁間といい、行くところに健吉さんの画をみないところはない(吉川英治『随筆 新平家』から)

 吉川英治は昭和25年から7年にわたり『新・平家物語』を週刊朝日に連載し、健吉さんは挿絵を描いた。吉川が「みないところはない」とした実例を最終展で拾うと—。

 <絵画>  津島天王祭、東別院・笠寺恵方の縁日、東山植物園、半田赤煉瓦工場
 <企業>  名鉄(電車・タクシーの色づかい、百貨店ロゴ)、青柳総本家(ロゴ)
 <緞帳>  中日劇場、御園座、豊田市民会館
 <鏡板>  名古屋能楽堂「若松」

 なかでも1997年にできた名古屋能楽堂では、健吉さんが鏡板にあえて「若松」を描いたことで起きた「老若論争」はぼくの記憶にも残っている。

■お城は名古屋のヘソだった

 吉川英治はこうも書き残してくれている。

 「ひと口に云うと、名古屋は途方もなく平べったい都市だな。例の名古屋城がなくなったのは淋しくない?」と僕が云えば、健吉さんは言下に「さうです、名古屋のヘソがなくなったようなもんです。名古屋のヘソは、あの象徴でしたからね」と、いかにも残念そうである。 (吉川英治『随筆 新平家』から)

 名古屋城さえ燃えずに残っていれば…。「平べったい」名古屋を誇りに思うゆえのこの思い、ぼくもしかと受け継いでいる。

■志賀直哉の直言「通俗で終わる危険」

 健吉さんは昭和22年、東京で初めて個展を開いた。その際にあの文豪、志賀直哉が紹介文を寄せていて、その文章にぼくの目が点になった。

 日展で賞をもらい挿画に装幀に今は流行児になっている。でも私は喜ばしいこととは思っていない。本流の絵を描く人である。杉本君の絵のうまさは分かり易いうまさだ。感じをよく掴んで要領よく画面に現す技量は却々鮮やかなものである。それだけでも稀な才人といふ事も出来るが、望むところはもっと大きい。今のところに止まっていては通俗作家に終わる危険がなしとしない。この危険水域を杉本君が早く出抜ける努力をされる事を望んでいる。 (志賀直哉『杉本健吉君の絵』から)

 なんという凄い進言。志賀直哉は明治16年生まれの「小説の神様」で、健吉さんよりふた回り上だ。とはいえ当時42歳の新進画家を「このままでは通俗作家で終わるぞ」と励ますとは…。

 志賀直哉の直筆の元原稿も展示してあった。健吉さんはこれをアトリエに飾って励みにしたという。一部を自分で書き写した「戒め画」もあった。文豪の直言が効いたかどうかの判断力はぼくにはない。

■35年で121万人 作品群はどこへ

 杉本美術館は1987年に名鉄が知多半島の美浜町に建設した。作品は公益財団法人が所有している。来館者はこれまで121万人。最終展にきた客から「閉館後はどうなるの?」と聞かれ、受付の女性は「まだ何も決まっていないのですよ」と答えていた。

<閉館まであと1週間、多くの人が訪れていた=10月23日、団野撮影>

 開館時にぼくは地元新聞社の経済部記者だった。直接の取材はしていないが、電車やタクシーのカラーリングからもわかるように、名鉄と健吉さんは深いつながりがあって、社会貢献のひとつとして個人美術館構想が浮上したと推測する。

 名鉄が美浜町を選んだのは、知多半島の鉄道沿線に住宅・リゾート地を整備しようという意向があり、この美術館をその中核的な文化施設にしたかったのではないだろうか。

 閉館理由はコロナ禍による来館者減とされるが、それだけではないだろう。ひとりの画家の独立美術館は運営が難しい。画家の死後も来館者数を維持するには、あの立地は無理があったように思える。

 収蔵品はどこへいくのだろう。名鉄が計画する新ビル(名古屋駅)、先に閉館した旧ボストン美術館(金山)が思い浮かぶけれど、障害や課題も大きそうだ。既存美術館への寄付になるか、どこか引き受け手が現われるか。旧ボストンの使い道とともに気になる。

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