5 映画 銀幕に酔う

すれ違う景色 歪みが生む魔物 … 邦画『怪物』

摩擦と痛み震源 だれにも可能性

(是枝裕和監督、6月3日、TOHOシネマズ赤池)

 ずっと考えさせられている。『怪物』の劇場内看板に小さく書かれていた「だーれだ」の問いだ。映画では、小学5年生の息子をめぐる出来事について、異変を気にかける母親、つぎに教師、そして生徒の目線で順に描かれていき、それぞれの見方のすれ違いが大きくなり歪みが拡がっていく。ぼくの答えは「『怪物』は歪みが産み落とす魔物で、だれもがそう見られうるし、だれもがだれかをそう見てしまうこともありうる」。ほかに解釈はありませんか? 問いかける監督の声が聞こえる。

<▲ 真ん中に「だーれだ」の問い>

■いじめ事件 見方がずれていく

 物語は、息子が小学校で教師から体罰を受けているのではとシングルマザーが疑い、学校に抗議するところから始まる。現場の教師は生徒の行動に翻弄されていて、校長らは事なかれ主義に走る。騒ぎの真ん中にいるこどもふたりは、純真な思いから互いを守り、より深くつながろうとする—。

<▲公式サイトから>

 それぞれが見ている「景色」が、悲しいほどにすれ違っている。自分が信じたい景色には実は、自分が見ようとはしていない(あるいは、見たくない)側面が隠れていて、相手はそちらの側面しか見ていない。

 景色にすれ違いが大きくなると、そこに歪みが生じ、激しい摩擦と痛みをまわりにまき散らし始める。そうなるとひとは、相手が怪物に見え始めてしまう―。

 「怪物 だーれだ」へのぼくの答えはこうだ。

 ― 特定の登場人物そのものではない。視野が狭くなり、見たいものしか見なくなったとき、相手から感じる不快感が正体だ。だれにでも、何かのはずみでだれかが怪物に見えてしまう恐れがある。だれかにそう感じさせてしまう恐れもある。現代社会はなおさら—。

 大人になると「鎧」…妻の怪物説

 この作品を一緒に観た妻も、頭をひねっていた。感想を語り合ってから2日後の5日昼、こんなことをぽつりと口にした。

<▲公式サイトから>

 「ひとは大人になったらだれでも鎧(よろい)をまとっていく、ってことじゃないかなあ。乗り越え生きていくため、つらいことは見ないようにしようと。安藤サクラ(シングルマザー役)も、夫がなぜ死んだか直視せず、息子に仏壇前で近況報告させていたし…」

 鎧と鎧がぶつかると、相手の鎧が怪物に見えてくる、ということだろう。純真な少年もいずれは大人になる。大人には、つらいことを忘れるため鎧を着ないと生きていけない人もたくさんいるだろう。

 とするとやはり、どんな大人も、だれかに怪物だと思われて嫌われるか、だれかが怪物に見えてしまう局面にぶちあたってしまう可能性がある。うーん、怖い。

■SNS時代への警鐘? カンヌで脚本賞

 映画が映しだす場面はリアリズムに満ちている。母子家庭の暮らしの風景も、小学校の授業や放課後の様子も、いまそこにあるニッポンの景色だろう。児童と児童の心の触れ合いの機微も。

<▲公式サイトから>

 画面の展開に弛緩がない。台詞は簡潔で的を得ていて、間延びしない。それゆえに、シングルマザーの視点から始まる物語は、教師、そして生徒へと転じるごとに、見ている景色に歪みが生じている様がくっきり浮き上がり、膨らんでいくのがわかる。

 ひとつひとつの出来事のつながりを、視点と角度と時系列を変えながらつむいでいく、立体的な構成も見事だ。

 ただ日本で暮らしたことがない人が観ると、登場人物たちの関係や味方のずれを理解するのは容易ではないだろう。それでも脚本を書いた坂本裕二氏は、ことしのカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した。

 5月20日の朝日新聞によると、是枝裕和監督は映画祭の前の取材で主題についてこんな風に語っている

 人々が自分が見たい聞きたい情報だけを取り入れ、そうでないものを排除する傾向が強まっている。視野がどんどん狭くなり、コロナ禍を挟んで世界中に広まっている。そんなことを考えながら撮影した。

 欧米の審査員も、世界のネット社会が「自分が見たい聞きたい情報だけ」に流れていることへの危機感を共有しているということか。脚本はその構図を、ち密な緊張感と素晴らしい構成で描き出した。それが受賞につながったのだろう。

■音楽のサカモト 「間」満たす調べ

 映画で流れる音楽を、ことし3月に亡くなった坂本龍一氏が担当したことも封切の翌日に観に行った理由だった。のびやかで清純、やさしくてつつましやか…。目をつむり、祈るように鍵盤に指を走らせている坂本氏の横顔が、画面の奥深くに見えるようだった。

 上述の新聞記事によれば、是枝監督が昨夏、坂本氏に手紙で楽曲提供を依頼した。坂本氏はかなり衰弱していたが、2曲を提供した。監督はほかにも坂本氏のアルバム収録曲から楽曲を選んで映画に使用したという。

 流れる楽曲に骨太な旋律はほとんど出てこない。壮大な音も少ない。伸びていってから、ほんのすこしはじける音や、すぐに消えていくけれど余韻が残る小さな音の調べ…。それらをつなぐ間(ま)は通常の曲より長いけれど、無音ではない。おそろしい映画名とは対極の、包み込むような豊かさを感じた。

■より複雑に 是枝作品の深化

 是枝監督の映画はこれまでに7作品を観ていた。そのうち以下の5作品は感想記も書き、このサイトで公開している。観た年月と、自分でつけた見出しを並べると—

だれも知らない 2004年10月
 作り物ではない自然さ 忍耐と時間に敬意

『歩いても 歩いても』2009年2月
 身につまされる場面の連続 ここでも阿部寛

そして父になる2013年10月
 実景の丁寧な作り込み 取り違えに普遍性

海街diary2015年6月
 姉妹の日常 流れる心 移ろいの物語

万引き家族2018年7月
 ひとことではくくれない でも腹に響く

 初期の作品のテーマは、タイトルそのものが明示し、輪郭がはっきりしていた。『海街diary』あたりから、ひとの気持ちの深いところまで降りていって、そこで共感できる何かを描こうという方向に深化していった気がする。

画面はリアル 解釈には余白

 2018年のカンヌ映画祭で最高賞パルムドールを得た『万引き家族』は、だれかから何かを盗んだり、何かを引っこ抜いてきた男女の集まりだ。でも「血より絆」とか「お金より信頼」といった、きれいごとを押しつけることはしない。

 どう評価するか、主題が何かは複雑で、判断も観客にゆだねられている。Aととれるが、Bもありうる。もしかしたらCやDもありうる—。描写では相変わらず実景をていねいに映し込むけれど、解釈には余白や余韻がたっぷりと残されている。

<▲公式サイトから>

 今回の『怪物』もその延長にある。子役の自然な演技からは、男優賞を得た『だれも知らない』での驚きを思い出した。安藤サクラは『万引き家族』での存在感を今回もしっかりと出している。

 描写は今回も徹底してリアルだけれど、解釈やテーマ探しが安易だったり底が浅いものになることを意図的に避けている気がした。

 ラストシーンもいろんな解釈ができそうな形で終わる。観終わった時にぼくは、激しく自転する熱いボールを受け取ったような気分になった。翌日にゴルフをしながらも、頭は画面と台詞を何度も反芻していた。手強い是枝監督、次はどんなボールを投げてくるだろう。

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