1 ゴルフ 白球と戯れる

賢島でも「全国」遠く またOBで自滅…グランドシニア中部決勝

初日の幸運3バーディー生かせず

 <写真① 1日目のスタートを見つめる選手や関係者たち(看板は合成)>

 70歳以上のアマが競う中部グランドシニアゴルフ選手権の決勝が10月8日と9日の2日間、三重県の名門・賢島カンツリークラブで開かれ、予選を通過した124人が参加し、ぼくは17位タイだった。全国大会に進める上位13人目のスコアより3打多かった。初日は3バーディーの6位タイと好発進できたのに、2日目にOBを2発も打って、またも自滅した。11度目の挑戦も「中部の壁」に跳ね返されてしまった。

1日目 神がかり幸運 6位発進

最初の4ホール 1パットパー

 どんな競技でも1番ホールは緊張する。この日も最初のドライバーは左へ曲がり、ラフからの2打目もさらに左へ曲がったが、うまく寄せることができてパーがとれた。続く3ホールも1~2mにつけて寄せワンとなり、リズムができた(写真②)。

  <写真② 1日目の前半アウト(GDOのマイサイトから、以下同じ)>

すると6番2打の7Wが30cmに

 6番の長いパー4の第2打は、左ラフからピンまで打ち上げで170ヤードあった。ラフの芝は浅く、順目だったから、7Wを気楽に振ってグリーンに上がったら、なんと30cmに寄っていた。お先にのイージーバーディーだった。

 すると8番のパー3でも、10mほどの上りのパットがジャストタッチで入ってしまった。OUTは1アンダーの35。神様がすぐそばで満面の笑みをうかべていた。

INはフェアウェーキープできなかったのに

 こんなことが続くわけがない―。INに入ってそう警戒し始めると、ドライバーが真っすぐにいかなくなった。ダボと3パットだけは避けたい―。そんな苦しいプレーが続いた(写真③)。

  <写真③ 1日目の後半イン(同上)>

でも18番でバンカーからチップイン

 耐えながらきた最終18番は、長いうえに最後がきつい上り。第2打はグリーン手前の深いバンカーに入った。あごが高く、ピンは旗しか見えない。

 脱出さえできればいい、あごを越える高い球で15ヤード飛ばしたい…。練習通り、フェースを30度ほど開き、芝上なら3倍の距離を打つつもりで砂をどさっと切った。数秒ほどして「カチャ」という音がして、グリーンわきの競技委員が「入ったあ!」の叫んでいた。

 <写真④ 1日目ラウンド後、結果を見る選手たち。80位までが2日目に進んだ>

2日目 突然のOBで崩れる

しびれる「11.0フィート」

<写真⑤2日目表示>

 1日目は風はほとんどなく、グリーンスピードは「10.5フィート」だった。しかし2日目は、スタート前から風が強く吹き、グリーンは「11.0」へと速くなっていた(写真⑤)。

前半の滑り出しはよかった 

 ぼくにとってはひさしぶり、しびれる高速グリーンだった。それでも前半アウトの最初の2ホールを寄せワンでしのぐことができると、すこし余裕がでてきた(写真⑥)。

<写真⑥ 2日目の前半アウト(同上)>

パー3の7番アイアンをダフりOB

 予測もしなかったミスがきたのは5番パー3だった。奥のピンまで135ヤード。迷わず7番アイアンを握ってあまり考えず振ったら、大きくダフってしまいボールは左の崖下へ落ちていった。アドレスで下半身をどっしりさせないまま、いつものリズムも忘れ、ヘッドをボールに当てにいってしまった。打ち直しはオンしてOBパー、初めてのタボがきた。

 ここで気落ちして気持ちが弱くなり、8番では3パットでまたダボにしてしまった。アウトは「42」。初日の貯金があると思っても、心に余裕はなかった。 

 <写真⑦ 2日目の後半イン(同上)>

後半も第1打ドライバーがOB

 そんな弱気が後半イン最初の10番、第1打に出た。ドライバーが左へ大きく曲がり、球は林の中へ消えていった。下半身ねじりが足りないまま、またあせって打ちに行ってしまった。なんとかOBパーに納めたものの、気持ちはすでに壊れていた(写真⑦)。

 そのあとのプレーは思い出すのも辛い。ドライバーは芯に当たらず、曲がった。パットはラインが読めず、距離もあわなくなった。グリーンは風でさらに速くなっていたのに、対応できなかった。17番でバーディーがきたけれど、時すでに遅しだった。

合計159打、17位タイに後退

 終わってみると、ぼくはトータル「159」、出場123人のうち17位タイだった。2日目のスコアが悪いので、実質は20位だ(写真⑧)。「156」までの上位13人が全国大会への出場権を得た。ぼくは2日間で3打も多く打っていた。

  <写真⑧ 2日間合計の「159」は17位タイ=中部ゴルフ連盟HPから>

 これで、公式試合の中部大会は5年連続、11回続けて、全国大会には進めなかった。「中部の壁」にまた弾き返された(写真⑨)。「あと3打」は「たった3打」ではない。「まだ3打も縮めなきゃ届かない」という世界だ。

 <写真⑨ これまでの中部大会の成績>

 もちろん「あのOBさえなければ」と考えてしまう自分はいる。でも中部決勝の技術水準だと、ミスショットしてもOBにする選手はほとんどいない。ぼくはこれまでも、ミスがミスで終わらず、最悪のOBになることを繰り返してきた。それもこの日は2発だ。これを克服するのも練習しかないのだろう。

中部敗退の原因を考える

体力、気力が枯渇

 この大会に備えて2日前から志摩に行き、近くのホテルに泊まりながら、賢島カンツリーに4日通った。最初の1日は打ち放しで40球を打ち、グリーン上に1時間いた。本番1日前には練習ラウンドをした。本番の2日目に崩れた原因は、体力と気力のピークが本番初日にきてしまったことかもしれない。

  <写真⑩ 1日目の練習グリーン。快晴で風も弱かった>

 本番2日目の朝は、自分でもわかるほど、疲れが残っていた。それが集中力を奪い、OBと3パットを誘っていった気がする。73歳、詰め込み過ぎたか。

初日ラウンド後に「スロープレー」忠告

 もうひとつは、本番1日目のラウンド後に、同伴選手のひとりからスロープレーを注意されたことにもあったかもしれない。18番でチップインバーディーをとった直後、クラブハウスに向かうカートの中ではっきり言われた。

 「あんたねえ、プレーが遅すぎるよ。プレーに入るまで、ひとつひとつがゆっくりで、時間をかけすぎてる」

 ぼくはショットでもパットでもルーティンにこだわる。自分のリズムを保ちたい、と。それとこの日は、自分の球ががOBラインに近かったり、カート道の止まっていたとき、近くの競技委員の裁定を仰いだため打つまで時間がかかったことも重なった。

 ぼくは「ご迷惑をかけ申し訳ない。ルーティンにこだわり過ぎたようです。ご忠告ありがとうございました。これから気をつけます」と頭を下げた。

 1日目は6位タイの好発進だったが、この忠告で気持ちは沈み、夜もよく眠れなかった。2日目はルーティンのうち、ショット前の素振り、パット前の右手でボールを投げるようにして距離感を図る所作などをやめた。それがOB2発や30パットと関係があるかどうかはわからない。

 どちらにしろスロープレーはだめだ。同伴のだれかにそう感じさせるだけでも失格だろう。かなり前、所属クラブで気安いメンバーから似た指摘を受けたことを思い出す。なのにくせを直すことができず、最近も、同伴のだれかがそう感じても、73歳の老人には言いにくかったのかもしれない。今回の忠告は、たまたまぼくのスコアがよかったかから「あえて言う」だったのか。この同伴選手に感謝しなければならない。

 この冬はルーティンをうんと縮め、適度な間とリズムのファストスタイルに変えてみよう。忠告してくれた選手とあらためてラウンドする機会があれば、今度はほめてもらおう。きっと、やれる。

賢島の設計 ともに名匠・巨匠

 この賢島カンツリークラブは、1969(昭和44)年に開場した。奥志摩のリアス式海岸に囲まれた丘陵に広がっている(写真⑪)。プロのトーナメントも開かれている名門だ。

コースは「西」の上田治

 コースは上田治(1907~1978)が晩年に設計した。この人の設計したコースは、東海でほかにもいくつかある。もっとも馴染みがあるのは森林公園(1955年、名古屋市)だ。近くの緑ケ丘(1959年)は、この大会の愛知県予選会場のひとつになり6月にプレーした。富士可児(1972年、岐阜)でも何度かプレーした。

  <写真⑪ クラブハウスに展示してある航空写真>

 上田治氏はクラブHPでこう語っている。

 「穏やかな林地で、しかも臨海という好条件の素材だけに、アイディアル・コースを目指し、環境的にリゾート・コースとしての楽しさと、チャンピオンシップゲームにも適応する競技場的きびしさを兼備したコースの実現を念願した」

 ぼくがあこがれるコース設計者の井上誠一(1908~1981年)とは同世代だ。「東の井上、西の上田」と呼ばれるほど、二大巨頭である。ぼくが実際にラウンドし巡礼記を書いてきた感覚では、井上誠一コースは適地を選び、地形を生かしつつ、自身の美学も突き詰めようとした印象が強い。 

クラブハウスは坂倉準三 

 クラブハウス(写真⑫)は坂倉準三(1901-1969)が設計した。ル・コルビジェに師事し、パリ万博日本館を設計したことで知られる建築家。クラブHPでこう語っている。

 <写真⑫クラブハウスの屋根は志摩の風土にあわせている>

 「特に、屋根の形を、志摩の風土のイメージに密着した、柔らかみのある陰翳の深いものとし、室内の床の高さを極力周囲の地形に合わせ、自然と建築とが一体感を作り出すように努めました」

  ゴルフコースのクラブハウス設計では、坂倉と同時代の巨匠、村野藤吾(1891-1984)の笠間ゴルフ倶楽部を思い出す。寄棟の大屋根の「端正さ」と、ちょこんと載せられた6本の鰹木(かつおぎ)の「かぶいた意匠」を思い浮かべて、ぼくはにんまりしていた。

<写真⑬ 村野藤吾設計のハウス=2022年4月、笠間ゴルフ倶楽部で>

 こんなことを想い、比較するのも、老人ゴルフの大事な愉しみだ。