5 映画 銀幕に酔う

イラン映画『シンプル・アクシデント偶然』が描く葛藤…だれが敵か どう復讐するか

投獄のトラウマ 衝撃のラスト

 昨年5月のカンヌ映画祭で最高賞を得たイラン映画『シンプル・アクシデント 偶然』を公開日の8日に観た。米イスラエルから軍事攻撃を受ける前のイランが舞台。かつて不当に投獄された経験がある青年が、自分を拷問した看守に似た義足の男を偶然見つけて拉致したものの、本人と確信できず投獄仲間に判断を求める。彼らが抱えるトラウマのどす黒さ、復讐法や本当の敵をめぐる口論の激しさに、監視と弾圧への反発があふれている。ラスト10分の衝撃が頭から離れない。
 (ジャファル・パナヒ監督、MOVIX三好)

男女6人の個性 国民を反映?

 ぼくは1973年の10月、ユーラシア一周の旅の途中にイランに10日ほど滞在した。当時は親米のパーレビ政権だった。しかし1979年にイスラム革命が起き、シーア派法学者の直接統治と反米路線に転じた。

 国民の暮らしの変化を知らないまま今日にいたり、米国とイスラエルの攻撃が2月に始まった。この映画はその少し前に撮られており、イランの人たちの暮らしや思いがわかるかもしれない、という期待もぼくにはあった。

 <▲写真① 映画に登場する主な6人=公式サイトから>

 映画は、市民が簡単に投獄されてしまう監視社会の息苦しさ、投獄経験がもたらすトラウマの辛さ、義足の男が本当の看守だったかについてのミステリー要素が主軸になっている。現代イランの街や人々の暮らしがわかる場面はわずかだった。でもパナヒ監督は、主要な男女6人(写真①)に現代イラン人の諸相を反映させているのではないか―。ぼくの見立てはこんな感じだ。

<ワヒド> 主人公 投獄経験あり
      無軌道な面もあるが根は「お人好し」
<シヴァ> 女性カメラマン 投獄体験あり
      世渡り上手 非暴力主義
<ゴ リ> 翌日に結婚を控える 投獄体験あり
       繊細な精神 感情を抑えるのが苦手
<ア リ> ゴリの婚約者 投獄体験なし
      地位ある常識人 ゴリを守ろうする
<ハミド> シヴァの元恋人 投獄体験あり
      気性が激しい カッとなると暴力
<エグバル?>義足の男 元「看守」なのか
      妊娠中の妻と長女 家族思い

 ゴチック部分はイラン国民の気質のモザイクをあらわしているように思う。米イスラエルが2月に始めた戦争に対してイランの対応が、国の矜持と意地を強く示すかと思えば、最高指導者を空爆で殺されたためか政権が固まらないためか揺らいで見えたりする。6人の特色とそのばらつきが、イランの対応の構図と相似している気がしてならない。

監督にも2度の投獄体験

<▲写真② 公式サイトから>

 パーレビ政権下ではSAVAKとよばれる秘密警察が暗躍した。wikipediaによれば、1979年のイラン革命の後もSAVANAの名前で残り、国民の「反政府活動」を監視し弾圧してきた。監督のジャファル・パナヒ氏(写真②)は1960年生まれの66歳で、2度の投獄を経験している。

 公式サイトの経歴(写真③)によると、1度目は2009年7月だった。ベネチアとベルリンの映画祭で最高賞を獲得した後だ。2作品ともイランでは上映禁止となっている。

 2度目の逮捕は2022年7月で、半年にわたり拘束された。今回の映画はその直後から制作され、昨年5月のカンヌ映画祭でも最高賞に輝いた。3大映画祭で最高賞を得た監督は史上4人目らしい。「反骨の巨匠」を支えたい映画人の気概も感じる。

 <▲写真③ 監督の略歴=公式サイトから>

 こうした国際評価への反発だろうか、4月30日の朝日新聞によれば、イラン政府は昨年12月、「反政府活動のプロパガンダ」という理由でパナヒ監督に懲役刑の判決を下した。記事にはないが、このカンヌ受賞作も国内では上映禁止だろう。

弾圧避ける配慮も? ロケや台詞

 こんな情勢だからパナヒ監督は、作品の出演者や関係者にまで弾圧が及ばないよう、脚本や撮影にはかなり気を配ったとぼくはみた。たとえば―。

 <砂漠で撮影>  外部の撮影は郊外の砂漠や荒地など、まわりに人がいない場所を選んでいる。繁華街の街路での場面を撮影する時も、特別なロケ体制はとらず、日常の路上で演技をさせ、それを車中から撮るようにしている。

<▲写真④ 拉致した「義足の男」をめぐり葛藤する男と女たち=公式サイトから>

 <台詞に固有名は少ない> 登場人物たちが投獄中にうけた拷問を糾弾する口調は厳しい。でも罪状の具体的な説明や、批判したい団体や個人の名前は「義足の看守」以外はほとんど出てこない。

 <随所にユーモアも>  厳しい怒りを描きながらも、ユーモアも織り込んでいる。ワヒドの人の良さにはぼくは思わず笑ってしまい、同時に、ほっとした。結婚式を翌日に控え写真を撮るため着飾っているふたりが、狭い車内に押し込められ、引っ張り回されていくところも、なんだか可笑しい。

 朝日新聞の先の記事によれば、監督は昨年5月のカンヌ映画祭授賞式に出た後、米国などを転々としていたが、ことし4月、あえて戦時下のイランに戻った。「イランで生きることでしか映画をつくることはできない」と

1973年にイランへ 第4次中東戦争

<▲写真⑤ 1973年のぼくの中近東ルート(赤線)。黄色はイラン国境、青はテヘラン>

 ぼくがイランに滞在した1973(昭和48)年10月は、大学2年と3年の間に1年休学しユーラシア大陸1周の旅をしたときの途中だった。イラクから陸路で入国した直後に、イスラエルとアラブ諸国との間で第4次中東戦争が勃発した。世界で石油危機が生じ、日本ではトイレットペーパー騒動が起きていた。イランには10日ほどいてアフガニスタンへ陸路で抜けた。

 イランに入る前のバクダッドでは夜間外出禁止令が出ていて、街がピリピリしていた。ぼくが「戦争」の匂いを肌で感じたのは初めてだった。幸い、以後はない。イランはこの戦争には直接関与していなかったから、当時20歳のぼくには、首都テヘランの街の人々は穏やかに見えた。(写真⑨~⑭)

<▲写真左⑨首都の大通り/右⑩アーケード街の賑わい =1975年10月テヘランで>

<▼写真左⑪チャドルの女性たち/右⑫行き交う人たち==1975年10月テヘランで>

 イランは当時、1953年に米国CIAの支援で復活したパーレビ政権の末期だった。アメリカの傀儡(かいらい)政権とも称され、石油収入や農地改革などもあって経済は成長していた。テヘランの街は想像より大きく豊かで、有名な「ペルシャの市場」にもモノとヒトがあふれ活気があった。(写真⑨~⑭)。その6年後のイスラム革命とパーレビ政権崩壊を知ったのは、新聞記者になって富山支局にいた時だった。

<▼写真左⑬ 右⑭テヘランの市場で=1975年10月>

 その後、ぼくがイランの映像を見たのは、2013年のハリウッド映画『アルゴ』だけだった。1979年のイスラム革命のとき実際に起きたアメリカ大使館人質事件と救出作戦を描いた映画だ。それ以後は、イランの様子を映像で見る機会はなかった。

米イスラエルとの戦争 どう描く

 今回の映画が描くイランは、ぼくが滞在してから半世紀もたっている。いまも続くイスラム国家の市民の暮らしの一端を伝えてはいるだろうが、セピア色の写真を連想できる場面には今回の映画では出会わなかった。でも映画の人物たちが見せる気質は、半世紀前に街角で感じた印象と変わっていない気がしてならない。

 そんなことよりと、こんな問いも頭を巡っている。
・パナヒ監督がこの映画のラスト10分に込めた意味は何なのだろう?
・弾圧されている母国へ、しかも戦時下に、自ら戻ったのはなぜ?
・母国と米イスラエルとの戦争を、彼は映画にするだろうか?
・描くとしたら、母国からの弾圧と戦争をどう関係させるだろうか?