「必敗」を止めれず 軋轢の”半”フィクション…邦画『開戦前夜』
回避か真珠湾か 創作加え映像化

映画『開戦前夜』を公開日の31日に観た。真珠湾攻撃の4か月前、30代の精鋭たちが机上演習で「日本必敗」の予測にたどりつき、全閣僚にプレゼンまでしたものの、結局、東條首相は天皇に「開戦やむなし」を言上するにいたる経過を描いている。猪瀬直樹のノンフィクション『昭和16年夏の敗戦』が原案。精鋭たちの模擬内閣の総理(池松壮亮)と、かれらを統括する軍人(國村隼)のふたりに、原案にはないフィクションを加えることで、戦争回避か対米開戦かをめぐる軋轢を、映像的に際立たせている。
(監督・脚本・編集=石井裕也、7月31日、TOHOシネマズ赤池)
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<注> 以下の論評では原案本や映画の神髄に触れます。気になる方は先に本を読むか映画をご覧ください。
膨らませた「池松総理」

原案の『昭和16年夏の敗戦』を10日前に読み、印象記も書いたので、ぼくの関心は、石井監督は映像化にあたりどこをどう膨らませたかにあった。もっとも膨らませたと感じたのは「総理」だった。民間の産業組合中央金庫(現農林中金)の課長でありながら突然、内閣直属の「総力戦研究所」に招集され、官僚や軍人も含めた精鋭たちでつくる模擬内閣のトップに抜擢された人物だ。
原案本で描かれた総理には、家族のことはほとんど出てこなかったと記憶している。映画で池松壮亮が演じる総理(以下、池松総理)は、父母が満州で軍の反感を買って不審死したり、それを追及すると憲兵に暴行を受け左腕を折られたりしていた。東條英樹や研究所長がそれに関わっていたことも匂わされる。弟には赤紙がきて戦地に送られる。

また池松総理は、自分が課された総理役に戸惑い、はじめは適当にやり過ごそうとし、陸軍の意向に沿い「開戦やむなし」を唱える。しかし模擬内閣が原油の備蓄や運搬船のデータなどの数字をもとに分析を重ねると、日本に勝ち目はほとんどないことがわかってくる。開戦から数年もたてば日本は空襲も受けてぼろぼろになると予測し「戦争回避しかない」と確信するにいたる。
映画はまた、池松総理の両親の不審な死、夫を戦場で亡くした妹の哀しみ、出征する弟の苦悩をていねいに描くことで、戦争に巻き込まれていく国民のつらさを池松総理に色濃くまとわさせている。さらに、米国の経済力と軍事力をよく知っていて「対米戦に勝ち目はない」と冷静に判断できた人たちの代表格としても描かれている。
「國村研究所長」の位置づけ

もうひとり、原案の本より脚色が施されていると感じたのは、研究所を束ねる軍人だった。原案本では当時の陸軍中将が研究所長をつとめていた。本の前半では、集めた精鋭たちをよく知るために自ら身体検査し、ユーモアで笑わせ、30代のエリートたちを和ませ、自由な議論を促す人物として描かれている。論議の途中でも目立った発言はない。
ただ、模擬内閣が「日本必敗」の予測をプレゼンした後の講評では、かなり辛口の評価を下している。猪瀬直樹氏は著作で史料を引用し、否定的な評価の箇所に横線を引いている。以下はその一部だ。
一般に努力の跡を認むるも戦争の本質及総力戦に関する原則の理解不十分なるもの及思索考察の粗慢なるもの少しとせず
単に対米、英衝突の遷延を目的とする外交策を採りたるは不可なり
第7期演習(団野注=8月16日指示)初期の情勢に於いて尚対米、英開戦の決断に欠けたるは遺憾なり
(『昭和17年夏の敗戦』p195-197)
映画では、総力戦研究所を実質的に束ねる軍人を國村準が演じている。「所長」という肩書は、後で述べる訴訟対応により、映画では使われていない。若き精鋭たちの模擬内閣が、主戦論の弱点に注目し、戦争回避へと傾いていく論議を快く思わない様も描かれていく。池松総理に露骨に”圧力”をかけたりもする。國村準が俳優として持つ包容力によって余韻や優しさは感じさせるものの、主戦論者の立ち位置は最初から変わらない。
こうして映画では、原案にはない創作を加えることで、池松総理は「対米戦回避」の意見を代表し、國村”所長”は「対米開戦やむなし」に傾く陸軍の代弁者のようにみえる。そうした脚色によって、「開戦回避」と「開戦やむなし」の軋轢の構図を鮮明にしよう、という映画人の意図をぼくは感じた。
遺族が「名誉棄損」と訴え
原案を題材にしたフィクションです―。映画の冒頭にこんな趣旨のテロップが流れた。この映画のもとになった、昨夏放映のNHKスペシャル『シュミレーション~昭和16年夏の敗戦~』をめぐる訴訟が背景にある。

7月23日の中日新聞朝刊によれば、NHKスペシャルのドラマ部分について、昨夏の放映後に研究所長の孫が「故人の名誉棄損」「史実歪曲」として損害賠償請求の訴訟を起こし、22日の公判では映画版の公開差し止めも追加請求したという。
ぼくは昨夏のテレビドラマは見ていない。映画版では、実質的な研究所長とみられる陸軍少将(國村準)は、精鋭たちの自由論議を抑制し、総理に圧力をかけ、陸軍の意向に沿った運営をした人物として描かれている。提訴という手段の是非は別にして、原案本との差を考えると、遺族の反発はわかる気はする。
この訴えについては、映画の制作委員会が公式HPで見解を公開している。映画の研究所長は「創作された人物」であり、名前も階級も変えてあるとし、こう書いている。
限られた史料や記録を基に当時の人々の人生に思いを巡らせ物語を創作することは、歴史を題材としたフィクション作品の通常のアプローチであり、そこにこそフィクションの価値があると考えます。(映画の公式HPから)
遺族の訴えとこの見解のどちらに説得力を感じるかは意見が分かれるところだろう。映画の主題に観客が納得いく答えを見い出せたかどうかにも、大きく左右される気がする。
「必敗」なのになぜ? 5つの台詞
この映画の主題について、パンフや公式HPにはこうある。
「なぜ日本は、負けるとわかっていた戦いに突き進んだのか?」
「いったい我々は何に吞み込まれたのか?」
「当時の日本を覆っていた、戦争に向かう『空気』の正体は何なのか」
映画のなかで、これらの主題に応えているとぼくが感じた台詞を5つ、書き出してみた。
①「戦争はやってみなければわからん」
模擬内閣が「日本必敗」の予測を報告したあと、東條英樹陸相が精鋭たちに放った言葉だ。原案本も映画も、東條本人は本音では天皇の意向に沿いたい気持ちもあり、実の総理として開戦回避も探っていくが、映画ではほかの場面でほかの陸軍幹部が似た発言を何度もする。楽観的主戦主義。選択肢に「不戦」はない、と言い換えてもいい。
②「これまでの犠牲を無にできない」
これも映画で東條が、開戦やむなしの意向を天皇に伝える前に部下に悩みを吐露する場面の言葉だ。昭和6年の満州事変以降の日本の犠牲者や労力を考えると、自分がここで立ち止まることはできないと。先人の苦労を背負っているから自分では止まれない。軍部だけでなく当時のリーダーたち共通の姿勢だったかもしれない。
③「戦争で儲けてる連中がいっぱいいる」
机上演習で精鋭のひとりが何回か発した言葉だった。地球儀をくるくる回しながら「これはマネー(お金)で回っている」と言い、戦時中に関連産業の業績が急上昇するグラフを示しながら。「儲けている連中」は声には出さないが「空気」をつくる。現代のロシアや米国やイスラエル、もしかしたらウクライナでも、こうした連中が政権背後にいて、戦争継続と「空気」を後押ししている気がする。
④「ああ、ついに新聞もこうなっちまった」
模擬内閣の書記官長(仲野太賀)が、内閣が対米交渉に期待する姿勢について批判的な記事を掲載する新聞を見ながらつぶやく。招集前は同盟通信社(現共同通信)記者だから「おれも含めてだけど」と言い足しながら。戦時中には新聞も、大本営と一緒になって戦争気分をあおって部数を増やし「もうけた連中」の一員だった。
⑤「アメリカの掌で踊らされてるんだ」
米国から最後通牒(ハル・ノート)を突きつけられたあとに、東條側近の陸軍中佐(江口洋介)が池松総理に投げかける言葉だ。「お前は何もわかっちゃいない」「日本の暗号文書もみな解読されている」と。映画のラストに近い場面で、あえてこの場面が出てくる。こと戦争に関しては、冷静な分析とか平和主義、反戦意識とは次元が違うところで巨大な力が働くー。戦争外交における軍事大国の冷徹さ、とでも呼べばいいだろうか。
こうした要素が複合して「開戦気運という空気」が生まれ、立ち止まることができなかった、というのが、この映画の答えなのだとぼくは観た。もっともっと早い段階、満州で小さな芽が出始めた時から意識していないと、あの戦争は止められなかったのでは、とあらためて感じる。戦後80年、世界で戦争が拡がるなか、日本は「いまからでも間にあう」のだろうか。いや、絶対に間にあわせなきゃ、いけない。
