好奇心なお旺盛 2年で都心回帰

 前払い賃料の6000万円を払って房総半島の新築老人ホームに入居した77歳の体験談である。「海をひとり占め」できる待望の暮らしを手に入れたものの、仲間との出会いは期待ほどでなく、地元の町の活気のなさに心がなえていく。旧友から刺激を受けると本来の好奇心を呼び起こされ、2年で東京に戻る決断をするまでを正直につづっている。中の様子や入居条件も具体的なので、ぼくには縁がないであろう「超高級ホーム」の暮らしを疑似体験できた。
 (集英社新書、2026年8月発行)

きっかけは『大波小波』

<▲夕刊「大波小波」>

 この本を知ったのは中日新聞夕刊の匿名コラム『大波小波』だった。8月25日の見出しは「超高級老人ホーム、その現実」。筆者の「ああ無常」氏は、冒頭で筒井康隆の『九十歳のあとさき』を取り上げて「どういう施設か、具体的な条件は書かれていないのが物足りなかった」と残念がり、平野悠の著作をこう評していた。

 「この種の施設の実際をこと細かに明かしていて、じつに面白い」(中略)
 「申し分ない安楽な生活にいかなる結末が?  なかなか思うようにいかないものだ」

 ぼくはいま74歳、妻とふたり暮らしだ。古稀をすぎたころから、老人ホーム入居も将来の選択肢のひとつと考えるようになった。近くのホームの広告を新聞折り込みで見つけると、目を通すようになった。「超高級」には入れなくても、いったいどんなところだろう、という関心はあった。

入居金6千万、利用料も月19万

 筆者が入った老人ホームの概要を抜き出して、カタログ風に列記するとこんな感じになる。

▽施設名 介護付き有料老人ホーム
    「PARK WELLSTATE 鴨川」

<▲高台に建つホーム(p38)>

▽所在地 千葉県鴨川市の海ぞい
▽開発者 三井不動産グループ
▽建物  高台にある22階建て
    2~5階=要介護フロア
    5~22階=住宅フロア
▽施設  (下記に詳しく)
▽部屋   473室/1室は40㎡~
▽賃料  月額17万円~
     利用料が別途必要
▽入居  2021年11月から

 当時77歳の筆者が選んだのは18階の「海が見える部屋」だった。

▽広さ 63.94㎡の1LDK
▽位置 18階
▽家賃 月額35.9万円
    6031万円を前払い
    (91歳までの168か月分)
▽利用料 月額19万円
 (共益費+サービス料+食事基本料)

筆者はサブカルの仕掛け人

 筆者の平野悠氏は1944年の生まれだから、ぼくより8歳年上になる。ライブハウス「ロフト」の創業者で、先の『大波小波』は「サブカルの仕掛け人」と称した。

<▲部屋から見える海(p75)>

 本によると、2020年の初頭から始まったコロナ禍で、仕事への情熱を失い会長を辞任した。同年代で親しい友人が相次いで亡くなり、妻とは疎遠のまま。テレビドラマ『やすらぎの郷』に惹かれる自分がいた。

 ピースボートに3度も乗るほどの海好きでもある。「海が見える老人ホーム」を探したら、三井不動産が千葉県の鵜川市に建設中だったこの施設を見つけた。現地見学でオーシャンビューの部屋に案内された際の気分をこう書いている。

 部屋の奥へ進み、窓際へ。
 見渡す限り、青い海が広がっていた。波がゆっくりと浜辺に寄せていく。子供のころから海が好きだった。世界を旅して七つの海も制覇した。でもこんな高いところから海を見るのは初めてだ。(中略)
 この海を独り占めできる!
 (p39)

 入居したのは2021年11月25日だった。

なんでも揃っている

  入居直後の印象をつづった第2章のタイトルは「ここは天国か?」だった。「この施設にはなんでもある」との小見出しに続いて列記されてる共有施設がすごい。

<▲高台に建つホーム(p207)>

 レストラン・バー
  (グランドピアノつき)
 理容室・美容室・マッサージ室
 大ホール・防音ピアノ室
 ビリヤードルーム・卓球場・麻雀室
 シアタールーム・カラオケルーム
 図書館(蔵書は1500冊)
 フィットネスルーム
  (ガラス張り/専属トレーナーも)
 水泳プール
   (長さ15m/オーシャンビュー)
 露天風呂
  (温泉が週に3日運ばれてくる)

 インドア系の趣味だけで満足できる人なら毎日、ホーム内だけで楽しく暮らしていけそうだ。新築のホームは全部で473室もあり、60歳以上の富裕な男女700人が住むことを想定しているというから、「超高級」をうたうなら、これくらいは必要なのかもしれない。

 もっとも筆者はオープン直後に入居したため、まだホームには50~60人しか住んでいなかった。このため「どこを覗いてもガラガラ」だった、と書いている。

眼下の町はシャッター街

 この本では、そんな豪華なホームなのに、筆者が少しずつ落胆していく過程がていねいに書かれている。ぼくがいちばん納得したのは、鴨川という地元の町の衰退ぶりだった。老人ホームは高台に建っているので、文字通り「眼下の地元町」である。

 駅前通りを進んでいくと、軒並みシャッターが降りている。(中略)潰れたままのそば屋、うどん屋。錆びたシャッター、赤茶けた蔦のからまる廃屋。(中略)
  海岸方面へ交差点を曲がっても、シャッター街が続く。洋品店、呉服店、履物屋、秤屋等々の「廃屋」。かろうじて開いている店にも、人の気配はない。(中略)
 映画館もない。ライブハウスもない。そして若者が歩いていない。
 今日も誰にも会えなかった。
 (P49~50)

 読んでいて胸がつまった。ぼくが高校まで暮らした京都・舞鶴の駅前も、帰郷するたびにシャッターが増えていった。3つもあった映画館がひとつ、またひとつと閉館していった。

 鴨川は首都・東京から電車でも2時間ほどでいける。しかも東京よりいつも暖かく、有名な鴨川シーワールドもあり、ぼくも2年前に孫を連れて行ったことがある。でも、町そのものがこんなに寂れているとは思いもしなかった。日本の地方都市の多くで起きている現象だろう。つらい現実をあらためてつきつけられているようで、読むのがつらかった。

元気人との接触あってこそ

<▲筆者略歴>

 施設はとても豪華なのに、魅力的な人とはなかなか出会えない―。町に出ていっても、シャッター街が拡がり、若者はいないし、テニスの会にもなじめない―。筆者の期待が少しずつしぼんでいく。

 世田谷の自宅と往復しながらのホーム暮らしには、ロフト創業者、サブカル仕掛け人としての人脈がひんぱんに出てくる。その人の作品に触れたことがある男性がふたりも出てきたときは、ちょっとうれしかった。

<▲森達也氏の著作>

 ひとりは森達也氏だ。入居から半年ほどした2022年3月、ホームの自室で「日本の老人問題」について対談しネット配信することになった。配信は中止になったものの、森氏は予定通り鵜川にやってきて、釣りや寿司、酒盛り、鵜川湾観光を楽しんだという。

 ぼくは森達也氏の著作『すべての戦争は自衛意識から始まる』の印象記に「強くて逃げない直球 球筋がネトウヨ刺激」の見出しをつけた。監督した映画『i-新聞記者ドキュメント』の印象記には「同調社会への違和感 一人称単数への目線」の見出しをつけた。知的で骨太な反骨心に惹かれている。

<▲足立正生監督の映画>

 もうひとりは映画監督の足立正生氏だった。歌舞伎町で一緒に酒を呑んでいたら「映画を撮るから金を出せ」と突然言い出し、ロフトが出資し、筆者はプロデューサーになった。その映画がなんと、安倍晋三元首相銃撃事件を題材にした『REVOLUTION+1』だった。2022年9月27日の国葬の日に上映するまでの日々を筆者は「足立監督と駆け抜けた怒涛の9月」と記している。

 ぼくは翌年1月に映画の完成版を観て、印象記に「宗教2世のどん底と首相銃撃」「83歳監督の力技 構図と動機 信念のせ再現」の見出しをつけた。筆者があの映画のプロデューサーだったとは驚きだった。

 これだけ熱情と行動力にあふれた表現者たちとつきあっていたら、鴨川での老人ホーム暮らしが物足りなくなのは、やむをえなかっただろう。

「終の住処」には元気すぎた?

 筆者は老人ホームでの暮らしの日々を「瘋癲老人ホーム日記」と題してFacebookに投稿していたらしい。本の最後に「2023年10月9日の日記より」という小見出しで「日記その136 最終回」が載っている。

 この鴨川という小さな街(人口3万人弱)の老人ホームに入居して2年。色々考えることあって私はこのホームを退去することにした。(中略)
 ライブが見たい、映画も芝居も、友のイベントに参加したり一緒に酒も飲みたい。困っている友を助けたい。社会運動にも参加したい。
 本も書きたい。映画も作りたい。ロフトというわたしが作った会社の成り行きを間近で見て意見してみたい。自分のライブや、ロフトラジオも再開したい。
 なんて思い続けていたらこの地での『孤立無縁』な生活がどこかつらくなった。
 (p213)

  筆者が入居時に払った6000万円のうち「初期償却費用と2年分の償却費用」として1700万円が差し引かれ、4300万円は戻ってきた。エピローグではこう書く。

 私が老人ホームに入るのはまだ早かったようだ。(中略)
 老人ホームとは基本的に「死を待つ場所」で、平均10年と言われる入居期間のうちに、老いを受け入れ、死を受け入れる準備をする。(中略)
 消えた1700万円は「死の授業料」として高かったか、安かったか?
   (p218~220)

 筆者は戦中生まれだが、ロフトを創業して成功させたあと、40歳でバックパッカーとして日本を飛び出し、海外で8年暮らし、ドミニカ共和国では市民権まで得た人だ。そんな挑戦心や突破力が、このホームで「独り占めの海」を眺めて暮らしているうちに蘇ったらしい。

 ぼくはこの本を読み終えた後、そんな筆者の人生からみれば、1700万円は安かったのではないかと思った。経済力はともかくとして、「まだ」74歳のぼくに、こんな挑戦と突破の力が残っているだろうか―。