重文「帝冠」庁舎に最先端の光アート わが街でのアジア大会に連動

百花繚乱…城と鯱 祭と花火 扇と花
19日に開幕したアジア大会を盛り上げる催しのひとつ、愛知県と名古屋市の本庁舎を利用したデジタルアートを21日夜、鑑賞した。昭和初期に「帝冠様式」で建てられた国重要文化財の壁面に、城としゃちほこ、津島や半田の祭り、豊橋の花火などがつぎつぎ出現し、色鮮やかに変幻し、動き回る。百花繚乱の光のショーは”わが街”への愛着心を心地よくくすぐり、アジア大会への期待を高めてくれた。
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市役所は縦長 塔屋も強調
地下鉄で名古屋城駅に着いたのは午後7時すぎだった。地上に出ると、市役所(昼間の写真は①)の壁面はすでに、夕闇の中で、色鮮やかなスクリーンと化していた(写真②)。


「AICHI NAGOYA ART & LIGHTS」。地元開催のアジア大会を盛り上げるため、開幕2日前の17日夜から始まった「毎夜の催し」だ。たくさんの市民が集まり、庁舎を見上げ、おおーと声をあげ、スマホで動画を撮っていた。
ふたつの庁舎の壁面を使い、それぞれでライトアップとデジタルアートを5分ごとに繰り返していく。ライトアップでは「AICHI NAGOYA」の白文字(写真②)とカウントダウンを映す。主役はデジタルアートで、市庁舎と県庁舎で別々にプログラムされた絵柄が壁面に投射され、色鮮やかな図柄がつぎつぎ現われては消え、またすぐに浮かんでくる。


はじめに見た名古屋市庁舎の”スクリーン”は、大きく育った街路樹と街路樹の間の壁面を利用していた。建物の真ん中、頂部にある高さ53mの時計塔をシンボリックに照らしつつ、その下の陶器タイルの壁面にさまざまな絵柄が浮かんでは消滅していく。


その図柄や模様は、名古屋城(⑦⑧)を中心とする徳川家の武家文化と歴史遺産(③⑤⑨)から花(⑥⑩)までが次々と出てきて、多彩だった。実際のデジタルアートは動き、音楽もついているが、ここに収録した写真は、ぼくがスマホで撮影していった静止画だ。市役所バージョンからは8枚(③~⑩)を選び、ぼくの勝手な解釈をつけてみた。




横長広大な県庁は 動画も


もうひとつの県庁舎バージョンは、道路側に街路樹がないこともあり、南北に長い壁面と大きな玄関を巨大スクリーンにみたてて、動画風の投射も織り込み、躍動感も出していた。




デジタルアートに出てくる絵柄は、こちらも郷土の伝統を前面に出していた。武士の文化(⑬⑭)から名古屋市以外の市や町の祭り(⑮⑯)、特産品(⑱)、そして花(⑰)や花火(⑲⑳)へと、実に盛りだくさんだった。




県と市 隣接の「帝冠」庁舎
こんな贅沢な光のショーが、名古屋市庁舎と愛知県庁舎を舞台に、9月17日(木)から10月24日(土)までの毎日、午後6時半から9時まで無料で”上演”されている。

そもそも名古屋市庁舎は昭和9年、愛知県庁舎は昭和13年にこの地に相次いで建設された。どちらも「帝冠様式」の意匠が強い磁力を放ってきた。しかも、丸の内官庁街の東の端に、南と北に並んで建っている。県庁舎と、県都の庁舎が、すぐ隣りあわせにある道府県をぼくは知らない。
「帝冠様式」は、昭和初期の国威発揚の機運のなかで、日本の伝統を建築意匠にも反映させようという風潮から生まれた。躯体や低層部は、西洋から導入した鉄筋コンクリートで作った。しかし屋根には日本の城郭の意匠を大胆に取り入れて「冠」のようにかぶせた。
ぼくは京都・舞鶴で生まれ育ち、昭和46年に大学生として名古屋に出てきて建築の勉強を始めた。建築史の教科書で「帝冠様式」という概念と、名古屋市役所と愛知県庁がそのひとつだと初めて知った。


しかしこの様式は、国威発揚→国家優先→中国侵略→対米開戦→日本破滅という戦前の流れを連想させることもあって、当時の建築界も、大学の先生たちの間でも、ネガティブな印象が強かったと記憶している。
しかし昭和から平成へと時代が変わるにつれて見方は変わり、「帝冠様式」への否定的な見方は薄まっていった。平成26(2014)年には、ふたつの庁舎が同時に国の重要文化財に指定された。愛知県のホームページによると、5つある指定基準のうち「意匠的に優秀」「歴史的価値が高い」のふたつに該当したという。
最先端のデジタルアートを眺めながら、ぼくは、50年前の意匠論や当時の皮膚感覚を思い出し、半世紀の移ろいもかみしめていた。
アジア大会 ボランティア参加も
デジタルアートの引き金になったアジア大会には、ぼくはボランティアとしても”参加”している。ふたつの競技の会場で、組織委員会のスタッフの指示のもと、記者やカメラマンの取材とか、施設の設営や運営のお手伝いをしている。
新聞記者だったときは、取材の立場でスポーツイベントと縁があった。1998年にバンコクで開かれたアジア大会では、現地特派員として走り回った。2008年北京五輪では、取材団の団長として訪れ、北京に1か月ほど滞在した。
今回のアジア大会は、リタイア後も自分が暮らす街で開かれている。恩返しのつもりで手を挙げ、4万人いるボランティアのひとりになった。もちろん無報酬。大会中のSNS発信は禁止されているので、閉幕したらその体験も書こうと思っている。
