1200年の重み 明るさも漂う聖地
(和歌山県高野町、2023年11月7日訪問)
和歌山県にある真言宗の大本山、高野山を初めて訪れた。平安時代の816年、空海が標高900mの盆地に創設した「天空の聖地」だ。5時間だけの滞在だったけれど、空海がいまも修行中という霊廟に僧が食事を運ぶ様を見たし、金堂の前で若い僧たちが唱える読経を聴いた。一方では海外からの旅行者とたくさんすれ違い、参道わきには戦国大名と現代企業の供養塔が同居していた。開創から1207年、聖と俗が融合し、不思議な明るさが漂っていた。
この旅ではクラブツーリズムの1泊2日ツアー「正倉院展と高野山」に夫婦で参加した。1日目に奈良国立博物館で正倉院展を見て橿原に宿泊。2日目にバスで高野山に上った。
■山上盆地の”境内都市”
奈良の橿原を出たバスが和歌山に入り、急坂を上り始めてから約40分、一気に開けたところに出たと思ったら、そこが高野山の街だった。標高900mの盆地。周囲を1000mの山々が囲っている。
中央に「壇上伽藍」があり、街はそこから東西へと細長く伸びている。その真ん中を、大型バスがすれ違える広さの舗装道路がゆるく湾曲しながら走り、その左右に大小のお寺や商店が連なっていた。
パンフなどによれば、この街の区域はみな、金剛峰寺を大本山とするお寺の境内にある。5時間しかいなかったけれど、交通規制や都市区画がどこか緩く、まったりした感じがした。通常の都市にあるような、行政や警察の細かい規制が、ここでは必要ないのかもしれない。
■現代企業の供養塔がずらり
ぼくらはまず「奥の院」を2時間かけて歩いた。このエリアのいちばん奥に霊廟がある。空海(弘法大師)はいまも生きていて修行中とされるところだ。宗教都市の聖地を、地元出身の女性ガイドさんが軽妙な語り口で案内してくれた。
まず驚いたのは、霊廟に向かう参道のわきに並ぶ墓碑や供養塔だった。20万基という数よりも、祀られ、祀っている人や団体が実に多彩なのだ。
さりげなく法然や親鸞の供養塔があった。ふたりは空海より300年も後に生まれ、浄土宗と浄土真宗の開祖だ。宗派は違えど、慰霊するのはみな同じ、という度量を感じる。
三栄傑をはじめ戦国武将から江戸時代の大名たちの墓碑もたくさんある。秀吉が1593年に「金剛峯寺」を寄進し、徳川幕府が先祖供養を奨励したという歴史が背景にあるらしい。
驚いたのは、大きな区画の真新しい供養塔には、現代の有名企業の名前やロゴが刻まれていたことだ。福助、ヤクルト、シャープ、キリンホールディングス、小松製作所、UCC上島珈琲、アデランス、日産自動車…。住宅展示場のお墓版のようだ。
うーん、来るもの拒まず。この度量の大きさはどうやら、空海の霊廟から現代へと引き継がれているらしい。
■「永遠の禅定」 聖なる御廟
霊廟につながる参道の入り口に小さな橋が架かっていた。「御廟橋」と呼ばれ、36枚の石板が横につなげてある。その裏側に仏や菩薩の象徴がサンスクリット(梵字)で書かれていて、水面に映っている様子の写真をガイドさんが見せてくれた。
その横にこんな看板があった。
「ここから先は弘法大師御廟前の聖域です。霊廟では弘法大師が永遠の禅定に入っておられます」
「永遠の禅定」。空海は835年に「入定留身」(にゅうじょう・るしん)し、いまも霊廟内で生きて修行を続けているとされている。このため近くの御行所から毎日2度、食事が運ばれている。年に1度は衣替えの儀式もある。
大師様「お食事箱」に遭遇 思わず合掌
「大師さまのお食事が通りますので、道を開けてください」。ぼくたちが霊廟の見学を終え、橋の方へ戻ろうとしたとき、後ろの方から男性の声が聞こえた。
振り返ると、長さ2mほどの木の棒を2人の僧がかついでいて、棒には大きな木箱が下がっている。声は先導役の僧からだった。御行所への帰り道だったから、その木箱には「大師様が食されたお昼ご飯」が入っていたらしい。
ぼくは、木箱に近づいて”残り香”を嗅ぎ、その日のメニューを想像してみたい、と一瞬だけ思った。高野山へ向かうバスで添乗員が「スパゲッティの日もあるようです」と説明していたから。でもまわりの人はすぐに道をあけ、しかも合掌している。ぼくも思わず手をあわせ、目を閉じていた。何の躊躇もなく…。
ぼくは真言宗の信者ではない。あの合掌は何の力によるものだったのだろう。たしかに霊廟はうっそうとした杉木立に囲まれ「幽玄の聖地」といった趣に満ちていた。直前には地下で大師様を描いた絵図に手をあわせていた。食事を運ぶ僧たちの表情に、大師様に奉仕しているという自己肯定意識を感じたのも確かだ。
もしかすると「大師信仰」の末端に触れたのかもしれない。
■秀吉が建てた金剛峯寺
ぼくらは昼食に精進料理をいただいてから、午後は、この宗教都市の中心部をやはり2時間かけて歩いた。最初に訪れたのが有名な「金剛峯寺」。この名前と寺の立ち位置は、ちょっと複雑だった。
この寺が最初に建てられたのは1593年。空海が835年に「入定」してから750年も後のことだ。しかも建立を命じたのは豊臣秀吉で、当時の名は青巖寺だった。
もともと「金剛峯寺」は高野山全体の総称だった。明治2年になって、この寺の名前とし、全国3600寺の「総本山」とした、とパンフレットにある。
日本最大の石庭 雌雄一対の龍
そんな歴史の寺で、ぼくがまず観たかったのは「日本最大の石庭」の蟠龍庭(ばんりゅうてい)だった。広さは2340平方㍍あり、雌雄一対の龍を表すという石が、建物を囲んで配されている。
高野山の盆地には龍が伏せているとの言い伝えにもとづいて1984年に作庭されたという。でもこの構図は、パンフの平面図を見ないとわからない。石には空海が生まれた四国の花こう岩、砂には空海が修行をした京都の白川砂が使われているというから、手が込んでいる。
同じ石庭でも、日本でもっとも有名で、室町時代に作られた京都の「龍安寺の石庭」とは趣がずいぶん異なる。砂の波紋は共通だが、蟠龍庭のほうがうんと広くて、置かれた石もかなり大きい。龍安寺のような土壁はなく、庭木に囲まれている。庭が醸しだす世界観はかなり違う。
臨済宗と真言宗の違い? 街中と山中の違い? 室町と現代の違い? 庭師の好みの違い? ぼくはとぼしい記憶を呼び起こし、想像を楽しんだ。
千住博の襖絵「断崖」と「瀧」
もうひとつのお目当ては、現代の画家、千住博氏が描いた襖絵だった。NHKスペシャルの密着ドキュメンタリー(2021年1月放送)を見ていたからだ。
その襖絵は見学ルートの最後、「台所」のわきの部屋にあった。細長い「茶の間」の襖に「断崖図」があった。断崖絶壁の岩肌と、張りつくように生えている樹木が墨だけで描かれていた。
説明パネルには「和紙を揉み、岩絵具の流れによって描く」という手法をとったとあった。帰宅後にドキュメンタリーの録画を見直すと、この手法にたどり着くまで画家が悶々と悩んだ経過を記録していた。
その隣の「土間」には「瀧図」があった。瀧は千住氏が得意とするモチーフだ。ドキュメンタリー番組で千住氏は「滝と滝の間の奥に空海がいる気がして、思いを込めて描いた」と話していた。
番組の最後には、襖絵が奉納された後、千住氏が初めて寺を訪ねる場面も出てくる。画家が寺の人に誘われ、床の間の「瀧図」の裏側、普段は非公開の仏間に通される。すると、瀧図の真後ろにあたる位置に空海の座像が安置されているのを見て、画家は感激する。
この場面、ドキュメンタリーの白眉だった。だけど情けないことに、ぼくはすっかり忘れていた。けれど今回、お寺を訪ね、本物を見たことで、瀧図と空海座像の位置関係が明快にわかり、やはり現場にいかないとわからないものもあるのだ、と納得したのだった。
■”都心”の大伽藍 堂本印象の立体曼陀羅
この宗教都市のもうひとつの見どころは、ど真ん中にある「壇上伽藍」だった。金堂を囲むように、塔や門や鐘やお堂など20近い建物が並んでいる。修行で悟りを開くための道場となっており、重要な行事もここであるそうだ。
なかでも朱色に塗られた「根本大塔」(こんぽんだいとう)が際立った存在感を放っていた。1843年に焼失したものの、1937年に再建されたという。
内陣に入ると、16本もある太柱に描かれた菩薩に目を奪われた。「華麗なる立体曼陀羅」。描いたのは堂本印象(1891-1975)だとパンフで知り驚いた。この画家の作品の記憶は、柔らかな暖色系の現代絵画だったからだ。
Wikipediaによると、堂本は戦前は日本画家として台頭し、大塔が再建された直後から曼陀羅絵にとりかかり、戦時中の1943年に完成させていた。
この堂本印象といい、金剛峯寺の千住博といい、そのときどきの描き手を呼び込む求心力、宗教的な企画力というようなものがこの大本山にはある。
■若い僧26人の読経 伽藍に響く
最後の見学先となった金堂から外へ出ると、階段の下にたくさんの僧が5列に並んでいた。えっ何が始まるの、と身構えているとすぐに一斉に読経が始まった。
僧は26人いて、みな剃髪で黄色い袈裟を着て、合掌しながら読経している。年齢は20代から30代だろうか。何人かは眼鏡をかけている。読経は節ごとにいったん切れ、すぐにリーダーらしい2人が先導して再開し、全員が続いて唱和していく。
その声のかたまりは晴朗としていた。目の前の金堂の庇で反射し、伽藍のあちこちへと拡散している。参拝客は遠巻きに眺め、動画や写真をとっている人もいる。欧米からきたらしい観光客がいちばん興味深く眺めているようにみえた。
その日の午前中は、霊廟への食事運びを見た。午後には若い僧たちの読経。この山上の盆地はたんなる観光の街ではなく、宗教都市として生きていた。
■高村薫「不思議な明るさ」
ぼくが高野山に興味を持ち始めたのは、2016年2月に高村薫の『空海』を読んでからだった。もとから空海や真言宗に興味があったのではない。高村薫は大好きな作家で、しかも同い年だった。その作家が空海を書いた、というのが理由だった。
ところがこの本、中身は手強かった。空海をはじめとして仏教の知識なんてないに等しいから、ついていけない。途中で読むのをやめ、予備知識を映像で得ようと、1984年につくられた映画『空海』をDVDで観たのを思い出す。
帰宅してから高村薫の『空海』を読み直してみると、高野山でぼくが感じた印象を、高村薫が下記のようにきちんと書いていたことを知った。
開創以来、天皇から庶民まで無数の人びとがこの世の浄土を目指して辿り着いた霊場の表玄関は、しかし平成のいま、幽玄というよりは涼やかに明るい。(P16)
観光バスを連ねてやってくる信徒の団体がある傍ら、若い女性の一人旅の姿も散見され、観光の賑わいと救いを求めての祈りがそこここで重なり合う。だがその空気はやはり、晴朗で明るく、延暦寺(滋賀県)や永平寺(福井県)など、他宗の大本山を包む空気とはかなり趣が違うのだ。(P17)
記憶になくて恥ずかしい限りだ。でも、やっぱり現地を訪ね、この目で見てみないとわからないものだと、うれしくもあったのである。
■宿坊は未体験 来春には奈良で「空海展」
高野山には117もの寺院があり、そのうち52のお寺が宿坊として利用できる。食事はもちろん精進料理だけれど、「般若湯」とよばれる酒やビールも注文できるそうだ。なんという、おおらかさ。朝には本堂での「早朝勤行」も体験できる。
今回のツアーで1日目に『正倉院展』を観た奈良国立博物館(奈良市)は、来年4月13日から『空海—生誕1250年記念特別展』を開くことも今回知った。
なるほどなあ。では、次は展覧会を観てから高野山に上り、宿坊に泊まってみようか—などと夢想している。