5 映画 銀幕に酔う

歌舞伎の映像美 優しきミステリーの香り…映画『木挽町のあだ討ち』

  <▲公式ホームページのトップ画面>

かぶる『国宝』 違いにも似た波長

 原作を読んで2年、待望の映画版『木挽町のあだ討ち』を公開初日の2月27日、名古屋郊外のシネコンで観た。江戸・木挽(こびき)町の芝居小屋をめぐる群像劇。核となる仇討ち場面が歌舞伎風の映像美に満ちているのに驚き、昨年6月に観た映画『国宝』との共通点を感じた。原作に漂う極上ミステリーの香り、芝居小屋の人たちのやさしさも伝わってきた。
 (脚本・監督/源孝志、2026年2月27日公開)

■『国宝』『木挽』3つの共通点

 27日にシネコンを訪れ、上映時間案内を見たとき「えっ!」と思わず小声を上げた。表示に『国宝』があったから。1日1回だけど、まだ上映していた。昨年6月の公開直後にそこで観てから9か月がたっている。異例のロングランだ。

 それもあったからだろうか、お目当ての『木挽町のあだ討ち』を観ながら、『国宝』との共通点をいくつも感じることになった。

 <▲(左)映画「国宝」=HPから  (右)映画『木挽町のあだ討ち』パンフの裏面>

<共通点1> 歌舞伎を舞台に映像美

 まず感じたのは「歌舞伎」の存在だった。ぼくは原作の『木挽町…』を読んだとき、歌舞伎のことをそれほど意識しなかった。でも映画では、芝居の舞台はもちろん、小屋前でおきる重要な仇討ち場面も歌舞伎タッチだった。ド派手な衣装、立ち回りの仕草、白雪と衣装の対比…。カメラはそれを見事に映像化していた。

 『国宝』はそもそも歌舞伎役者が主人公だから、映画でも歌舞伎場面にこだわるのは極めて当然だし、それが生命線だった。『木挽町…』の映画版もそうなったのは、芝居小屋が舞台だし、主題も”やさしさに満ちた大芝居”なのだから、映像化のプロとしては当然の発想なのか、先行する映画『国宝』大ヒットの影響もあったのか。

 ただ、映像化された歌舞伎は、素人目に観ても、質はかなり違う気がする。映画『国宝』の主役ふたりは”現代の洗練された様式美”に到達しようとしている。映画『木挽町…』のスタッフたちは”江戸後期のギラギラした生身の形式美”を意識しているように感じる。そこにはプロの矜持もあるだろう。

<共通点2> 文学賞の名小説が原作

 どちらの原作も、複数の文学賞を得ている。吉田修一著の『国宝』は単行本が2018年に発刊され、芸術選奨文部科学大臣賞と中央公論文藝賞を受賞した。永井紗耶子著の『木挽町のあだ討ち』は2023年1月に発刊され、直木賞と山本周五郎賞をダブル受賞した。

  <▲(左)小説『国宝』の下巻 /(右) 小説『木挽町のあだ討ち』>

 ぼくは2作とも映画を観る前に読み、印象記も書いた。つけた見出しはこんなだった。

小説『木挽町のあだ討ち (2024年1月)
 ひとはこんなに優しくなれるのか
 語り口の魅力  粋な物語 極上ミステリー

小説『国宝 (2025年6月)
 歌舞伎の深遠  ほとばしる熱量
 極道から梨園へ 関西弁と軽妙語り

 どちらも唯一無二の世界を描き、すばらしい高みに達している。文字でしか描けない豊かな世界、文字でしかえられない至福の時間を味わうことができた。

<共通点3> 大事な脇役には渡辺謙

 渡辺謙は思わぬ共通点だった。映画『国宝』では上方女形で主役ふたりの親と師匠を演じた。映画『木挽町の…』では、旗本の次男坊で婿養子を断った戯作者。偏屈だが人間味もある大事な役を演じている。しかもどちらでも歌舞伎そのものを演じでいる。

 <▲(左)『木挽町…』パンフ表面 (右)『盤上の向日葵』パンフ>

 そういえば、昨年11月に観たばかりの映画『盤上の向日葵』でも、波乱万丈の真剣師(パンフ写真の右下)を演じていた。

 この3作品とも、この役者は大柄な体、多彩な表情、野太い声で骨太な存在感を発散させ、出てくると画面を独占してしまう。ぼくは黒澤映画の三船敏郎を思い浮かべていた。

■違いもたくさん でも似た波長

 もちろん、2本の映画は、違いのほうが多い。ただ、違いといってもまったく異なるのではなく、どこか波長が似ているというか、同じ水準とか同列にある感じがする。思いついたところを一覧表にしてみると…

   木挽町のあだ討ち  国宝
<時代> 江戸時代の後期 戦後から現代
<主題> やさしき大芝居 血筋か才能か
<主役> 若侍囲む群像劇 ふたりの若者
<形式> 上質ミステリー 王道歩む物語      
<製作> 東映      東宝

 最後の東映と東宝は、違いに気づいたとき、おっと思った。松竹とならぶ「御三家」だ。東宝の映画『国宝』が記録的ヒットとわかったのは昨年夏ごろだろうか。そのころ東映の映画『木挽町…』の撮影は終わっていただろう。とすると最後の編集でどんな工夫がなされたのだろうか。知りたいような、知りたくないような―。

■映画化 こちらも大胆な工夫

 映画『木挽町…』は原作の魅力をどう映画化したかも、気になるところだった。原作を読んだのは2年前なので、細かな違いはわからない。ただ主役の設定や位置づけには、大胆な工夫を取り入れていると感じた。

<▲柄本佑(公式HPから)>

 遠山藩の菊之助が江戸で仇討ちを果たし、国許へ戻ってから2年後、菊之助の許嫁の兄、という若侍が芝居小屋を訪ねてくる。その設定と起点は映画も同じだ。

 小説では、芝居小屋の男たちが、その若侍の問いに応じて、仇討ちの様子や自らの生い立ちを一人称で語っていく。その語りが漫談か落語みたいで、読み手は自分が若侍になった気分になる。つまり若侍は”黒子”のような組み立てになっている。

 映画では、仇討ち事件から2年後に江戸に出てきた若侍を柄本佑が演じ、若きコロンボのような感じで、素朴な疑問をもとに「真相」を探っていく。黒子ではなく、一人称の出ずっぱり、真ん中の主役だ。藩主との関り、探索の目的にも、原作とは大きな違いがある。

 それに小説では、芝居小屋の男たちが、いまの居場所を見つけるまでの苦難の道のりを語る場面も大きな魅力になっていた。映画では、事件をとりまく男たちの人生にはそれほど深入りせずに進んでいく。

 映画『国宝』でも、小説にある要素の大胆なカットと工夫があった。原作に多彩な人物が出てきて、それぞれにサイドストーリーがついている場合、映画化に際しては思い切って絞らないと、展開が散漫になったり、映像にしたい場面の時間を確保できないのだろう。

 <▲名大ComoNeの棚主展示。『国宝』と『盤上の…』もある>

 観たい映画に名作とされる原作がある時は「先に原作を読む」―。ぼくはずっとそれを流儀にしてきた。名古屋大学ComoNeの棚主展示は昨年冬から「小説から映画そしてブログへ」をテーマにし、原作20作を並べている。

 この流儀だと、映画はネタバレ状態で観ることになる。原作を読んでいない人に比べると、結末にむけてのハラハラドキドキはもちろん乏しくなる。それは覚悟のうえだ。

 でも、原作を徹底的に読み込んだ上で映像化したプロたちの工夫を味わい、その矜持と苦労を想像し、印象記を書く愉しみもある。ComoNe棚主コーナーに掲げている「ひと粒で3度おいしい」は、今回も健在だった。