
撮影は鎌倉 新進建築家の現代住宅

鎌倉に住む夫婦が、2年前に亡くした息子とそっくりなヒューマノイドと暮らし始める近未来物語だ。建築家の妻は抱きしめて喪失感を埋めようとし、工務店社長の夫はロボットにすぎないと違和感を示すが、しだいに距離感が揺らいでいく。題名『箱の中の羊』は『星の王子さま』の一節で「大切なものは目に見えない」の暗喩。かれらの不思議な日々の撮影は、透明感あふれるデザインで話題の住宅で撮影され、その設計も新進建築家の男女だ。「大切なもの」をさがす時間が、洗練された建築空間につつまれて流れていく。
(脚本・監督=是枝裕和、2026年5月29日公開)
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『星の王子さま』の格言


題名を不思議に思いながらこの映画を観る人は多いだろう。そのことへの配慮か、由来は映画のかなり早い段階で出てくる。妻の音々(おとね)が寝室で、息子・翔(かける)のヒューマノイドに、サン・テグジュペリの児童文学『星の王子さま』(原題:Le Petit Prince)を読み聞かせる場面だ。『星の王子さま』公式HPによるとこんな一節だ。

飛行士の「ぼく」は、飛行機の故障で不時着したサハラ砂漠で不思議な王子と出あう。最初の言葉が「羊の絵を描いて」。しぶしぶ描くが王子は「病気で弱っている」「角が生えている」「年をとりすぎている」とNGばかり。仕方なく、穴が3つある箱を描き「この中に羊がいるよ」と渡すと、王子は「こんなのがほしかった!」と喜ぶ―。
恥ずかしながら『星の王子さま』は昔読んだけれど、羊の絵は覚えていなかった。著者が込めたメッセージが「本当に大切なものは、目には見えない」だということも、映画を観た後に公式サイトや『星の王子さま』のHPで知った。
3要素 「大切なもの」どこに
観終わってから「目には見えない、本当に大切なもの」は何なのかと考えていると、3つの要素のからみあいの中にあるのでは、と思い始めた。
ひとつはもちろん、ヒューマノイドだ。翔が生きていた時の写真や親の記憶から精巧につくられていて、容姿はそっくりだし、脳のAI(人工知能)は大好きだった江ノ電の駅を正確に言えたりもする。でも食事も睡眠もとらず充電のみ。風呂も入れない。親から30m以上離れると電気が切れてしまう。

ふたつ目はそんな”息子”と暮らし始めた夫と妻の対応が異なること。言い出しっぺの妻の音々はヒューマノイド息子を「おかえり」とハグで出迎え就寝前に読み聞かせもする。夫の健介はしょせんロボットだと馴染めず「俺はお前のパパではない。おじさん、でいいよ」と言い放つ。だが日がたつにつれて、ヒューマノイドとの距離や交情の質が変わっていき、夫妻は自分たちの内面と向きあうようになっていく。
もうひとつ大きな要素は「木と森」ではないだろうか。ヒューマノイドの翔が以外にもこんな行動をとる。
・誕生記念の木は何をどこに植えたのか音々に尋ねる
・健介の工務店で大工(田中珉)が檜にカンナをかけているのに関心を示し、屑(くず)や年輪の話に聞き入り、大きな樹に耳をくっつけて樹液の音を聴こうとする
・音々との住宅模型づくりをするとき木を大事にする
音々も、住宅設計の施主との協議で、植える木が将来は森になること強調する。工務店の2代目社長である健介も木の魅力を語る。こうした「木と森」の積み重ねはラストシーンの伏線になっている。
主題と3つの要素の関係を整理しようと、ネタバレにならない範囲で「ベン図」(上図)を作ってみた。すこし整理できた気はする。だけど、こぼれ落ちたものがいっぱいありそうだ。円が重なる部分の意味づけに無理がある気もする。うーん、是枝映画の分析は難しい。
AIの未来 ラストに是枝史観
ロボットやヒューマノイドの未来像は、AIの進化を前提に、SFの映画や小説がたくさん描いてきただろう。その一部しか観たり読んだりしてないけれど、大きく分けると3パターンあるように思う。
①人間をすべての面で超え、人間を支配する
②やさしく進化して、ずっと人間に寄り添う
③自我を形成し、人間を離れて仲間と共同体
この映画のラストは、ヒューマノイドやAIの未来を是枝監督がどう考えているかの表明でもあるだろう。ネタバレを避け、ヒントだけ書くとすれば、ヒューマノイド翔が、音々と健介にむかって言う最後の言葉だろう。「そろそろ出発なんだ」
建築好きには別格の愉しみ
この映画、是枝ファンでなくても、建築設計が仕事だったり、目指している人にも堪らない作品だろう。大学で建築を学んだだけのぼくも、こんな場面に見入った。
・音々はみずから設計し鎌倉に建てた住宅兼アトリエで夫と暮らし仕事もしている
・音々がヒューマノイド翔に言う。「木とガラスを大事にすることは先生から学んだのよ。その組み合わせは難しいけれど、それが建築の面白いところでもあるわ」
・アトリエには模型もたくさん展示してあり、ヒューマノイド翔と”親子”で模型づくりに熱中する
・住宅設計を依頼してきた夫婦との打ち合わせは、敷地見学や模型、図面、予想パースの説明がどれもがリアル
撮影は風景研究所の「多重の家」

なによりも映画に出てくる住宅がすばらしい。木とガラスと中庭の組み合わせに、洗練され透明感が漂う。だれの設計かとネット検索したらすぐわかった。一級建築士事務所「風景研究所」。ホームページには4月1日付でこんなNEWSがアップされていた。
是枝裕和監督の新しい映画、『箱の中の羊』に協力させていただいています。綾瀬はるかさん演じる女性建築家の自邸として、風景研究所の「多重の家」で撮影が行われています。劇中で使われている、建築設計事務所ならではの模型やスケッチなども提供しております。(「風景研究所」のHPから)


<▲庇と回廊が中庭を囲む=風景研究所HPから>
「多重の家」は2023年の完成で、2024 年のJIA関東甲信越支部の住宅部会賞と会長賞、グッドデザイン賞、日本建築士連合会作品賞奨励賞を受賞した、ともある。建築デザインの説明はこんな書き出しで始まっている。
住宅棟と事務所棟は庇を介して行き来する。中庭を庇と回廊によって囲み、中庭が内部に浸食するように、吹き抜けを介して立体的な抜けが連続する。(同上)


<▲立体的な抜け、中庭が内部に浸食=同上>
風景研究所を主宰するのは小松大祐氏と大島碧氏。ともに大学卒業した後、同じ時期に隈研吾事務所での勤務経験がある。さらに両氏とも1987年の生まれ。綾瀬はるかは1985年生まれだから同世代だ。住宅設計家としての綾瀬の演技がロケ住宅に溶け込んでいると見えるのは、女優の演技力だけではない気がする。
西沢立衛氏の著作からもヒント
映画が終わり、流れていくエンドロールを眺めていたら、その最後に「西沢立衛」の名があって、また驚いた。妹島和世氏と組んだユニットSANAAでも著名な建築家だ。
なぜ?と帰宅後にネット検索したら、是枝監督のインタビュー記事が出てきた。脚本の参考にするため建築の本を読んでいったら、西沢氏の著作にもっとも惹かれた。なかでも「建築でもっとも大切なことは目には見えない」という主旨の記述を読み、映画と建築は似ていると思った、という。
あとはまったくの推測だけど、西沢氏は是枝監督の相談に応じる形で、映画撮影にふさわしい住宅として「多重の家」を推薦したかもしれない、と勝手に思っている。
建築がらみ映画は5本目
建築がからむ映画の印象記は5本目になった。これまでの4本は以下の通りだ。建築そのものは言葉をもたないけれど、素材と形と色は多弁だ。それらは映像と相性がいい。
『Sketches of Frank Gehry』(2007年7月)
建築の映像 批評の言葉
重層の響き


<▲(左)ゲーリー設計のルイ・ヴィトン (右)北京五輪の象徴「鳥の巣」>
『鳥の巣』 (2008年9月)
北京五輪の象徴
スイス人建築家の挑戦
『AALTO』 (2023年10月)
寄り添うデザイン
”姉さん女房”との愛から


<▲(左)アアルトの作品と映画パンフ (右)伊東豊雄「代々木八幡トイレ」と映画パンフ>
『PERFECT DAYS』 (2024年1月)
スター建築家競作
TOKYOトイレが舞台
是枝作品は8作目 AIに驚き

是枝裕和監督の映画を観るのは8本目だ。さまざまな家族を通して現代社会に切り込んできた。最新作のテーマに「AI (人工知能)と夫婦」を選んだのには驚いた。
この作品は5月のカンヌ映画祭コンペ部門に正式出品された。2018年の『万引き家族』では最高賞を得ている。今回は賞から漏れたけれど「カンヌ常連の国際的な実力監督」であることをあらためて証明した。

これまでの7作品も印象記も、見出しとともに観た年月順に書き出すと…
『だれも知らない』 (2004年10月)
作り物ではない自然さ
忍耐と時間に敬意
『歩いても 歩いても』 (2009年2月)
身につまされる場面の連続
ここでも阿部寛
『そして父になる』 (2013年10月)
実景の丁寧な作り込み
取り違えに普遍性
『海街diary』 (2015年6月)
姉妹の日常 流れる心
移ろいの物語
『万引き家族』 (2018年7月)
ひとことではくくれない
でも腹に響く
『怪物』 (2023年6月)
すれ違う景色 歪みが生む魔物
摩擦と痛み震源 だれにも可能性


<▲(左)『怪物』公式サイト(右)興福寺の国宝と『阿修羅のごとく』公式サイト>
リメイク『阿修羅のごとく』 (2025年2月)
4姉妹の突き抜け感すごい
不倫 疑心 嫉妬
小道具に「昭和」
この7作品のうち『怪物』だけは脚本を坂元裕二氏が書いた。ほかの6作品は脚本も是枝監督が手掛けている。『阿修羅のごとく』リメイク版も脚本は是枝氏が書き直している。リストを眺めていると、共通する魅力が浮かんでくる。
つくり込みのていねいさ
子どもの演技の自然さ
揺らぐ心の描写の繊細さ
まだ64歳だ。次は何を主題に、どう描いてくれるだろうか。準備はもう始まっているのだろう。
