ガリレオと刑事と作家 男3人の切ない終活…東野圭吾『永遠の記憶』
シリーズ11作目 残された謎にも幕

東野圭吾氏は7月23日、大腸がんのため死去した。驚いたのは68歳という若さだけではなかった。この新作『永遠の記憶』が2週間後に発刊されたのだ。がん末期も書き続け、校了直後に亡くなったと推測できる。しかも本作では、ガリレオこと物理学者・湯川学と警視庁刑事・草薙俊平の大学同窓コンビは「終活」を意識し、過去の事件の残された謎まで解き明かして幕を閉じる。作家は死を意識し、みずから紡ぎ出した物語世界を完結させて”遺作”にしていた。男3人、その見事さが切ない。
(文芸春秋、2026年8月10日発刊)
<注> この印象記は、ネタバレにならないよう気を配ったつもりです。すこしでも気になる方は著作を先に読んでください。
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同窓生が「終活」論議
最初に「終活」の語が出てくるのは、新しい事件のなぞ解きがひと山を越え、次のなぞ解きにかかる前だった。草薙がウイスキーを手土産に湯川の研究室を訪ねて、語りあう場面。草薙は警視庁のなかで昇進し、現場の刑事たちをとりまとめる管理官になっている。
「じつをいうと、俺はそろそろ終活(しゅうかつ)を考え始めている」
草薙の言葉に、湯川の目がレンズの向こうで大きくなった。
「終活? 定年を機に考え始める人が多いらしいが、少し早すぎないか。警察も定年が延長されたんだろう?」
「65歳だ。だが終活はいつ始めてもいいらしい。それに今もいったが、刑事としての寿命は全うした。…」
(中略) 湯川は(中略)不意に顔を草薙のほうに向けた。
「じつは僕にも振り返りたい一件がある。事件自体はずいぶん前に解決しているが、一部の真相は不明のままだ。(後略)
<p103~104>
ぼくは74歳だから「終活」の言葉にびっくりし、付箋を貼っておいた。読み終わってからこうして書き出してみて、この会話に作品の骨格が詰まっていると悟り、がく然としている。
「不明のまま」の「一部の真相」はしだいに明らかになっていく。最後の最後、ふたりが研究室で再びウイスキーを飲みながら語りあう場面で、草薙がもういちど「終活」の語を使って刑事人生を締めくくる。この部分は最後に引用することにしよう。
第3作と共振するとは

東野圭吾が書いた小説は今回で105冊に達したという。ガリレオシリーズでは11作目だ。このシリーズでは、断片的な証拠からでも理性的に事件を推理できる湯川と、「帝都大学」の同窓生である刑事の草薙が難事件に挑んでいく。途中から女性刑事の内海薫も加わる。薫はこの11作目では冒頭、殺人未遂事件の被害者になる。

ガリレオシリーズでもっとも有名なのは、2005年に出た第3作『容疑者Xの献身』だろう。直木賞と本格ミステリー大賞を受賞した。ぼくも2007年に読み、印象記にはこんな見出しをつけた。「理系の素養を投影 ストーカーと純愛の間」―
それだけに、この11作目『永遠の記憶』で、刑事と学者の「終活」の対象が、名作『容疑者Xの献身』の事件で残されたままの謎の解明、とわかったときは、不意をつかれた。『容疑者X…』は完璧な終わり方だったはず、謎なんて、残っていたっけなあ…。
残された謎…映画で確認
その謎を確認したくて、読み終えるとすぐ自宅本棚で『容疑者Xの献身』を探したが、見あたらない。息子か娘が持ち出したらしい。東野氏の訃報が7月末に流れ、9月には『白鳥とコウモリ』の映画版が公開されたから、読んでみる気になったのだろう。父としては、それならそれで、ちょっとうれしい。

そこでぼくは、じゃあ『容疑者X…』の映画版を観てみよう、と思った。Netflixで検索したら幸い、視聴可能コンテンツにあったので、さっそく観た。
隅田川近くのアパートに住む天才数学者の石神哲哉(堤真一)が、隣室に住む母(松雪泰子)と娘(金沢美穂)が起こしてしまった事件に気づき、アリバイ工作とトリックづくりに奔走する物語だ。草薙(北村一樹)は担当刑事のひとりで、湯川(福山雅治)はなぞ解きに協力する。しかも石神は、草彅と湯川の大学同窓生であり、湯川の大切な友人であった。
映画を観てやっと『容疑者Xの献身』に「残された謎」があったこと、それが何であったかを初めて認識できた。原作小説を読んだときは、ひとの感情には理性が及ばない領域があることが劇的に描かれていて、完璧な作品に思えた。そういえば、そうだった…。
「健気な母娘」も伏線か
もうひとつ、大きな気づきがあった。『容疑者Xの献身』も『永遠の記憶』も、健気に懸命に生きている母と娘が、どうしょうもない父の存在に苦しみ、その呪縛から逃れようとして最初の殺人事件が起きていることだった。そうか、著者はこの遺作においても、そこまで周到に伏線を張っていたのだ。
そらに『永遠の記憶』では最後に、湯川が「残された謎」を解明し、容疑者Xとして服役した石神との、その後の交流も語る。「終活」という語は、最後の最後に、草彅がふたたび口にするのだった。
「(中略)俺がリタイアしたとしても、殺人事件が起きるたびに、誰かが謎を解き、秘密を暴くだろうからな。だから俺が刑事としての終活をするに当たり、一度ぐらいは、仕方のないこと、と真相を吞み込んでもいいんじゃないかと思うわけだ」
<p290>
なんという見事な「終活」であり「遺作」だろう。作家がみずからの死期を悟りながら、これまで自分が作り上げてきた物語世界のなかで、主人公の男ふたりに終活させ、かくもきれいに幕を引き、完結させるとは―。切なすぎる。
