
菊竹清訓の高床 新展示も生かす

大規模改修を終えリニューアルオープンした江戸東京博物館(東京・両国)を4月7日に観てきた。江戸の街並みや長屋の模型が精巧で、人形がみな違う表情と仕草をしているのに驚き、往時の賑わいが聴こえてきた。菊竹清訓設計の大胆な高床構造は新展示にも生かされ、進化した模型と人形たちがその細部を支えている。
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史料もとに徹底作り込み
両国橋と街の賑わい
いちばん長い時間をかけて見入ったのは「両国橋西詰」だった(写真①)。芝居小屋が6軒もあり、料理屋や茶屋や髪結い店が連なっている。通りには寿司や天ぷらの屋台も並び、大道芸人も出ている。隅田川には屋形船や猪牙(ちょき)船が浮かび、花火見物もしている。



<▲写真② 通りの町人たち みな生き生き>
橋の上も通りも人であふれている(写真②)。懐手の商人風の男、芝居見物にきたらしい女性、駆けまわる子ども…。人形のひとつひとつがそれぞれ違う表情を持っている。笑ったり、驚いたり、話し込んだり。パネル説明にこうある。
この模型は、天保の改革の取り締まり記録をもとにして、改革前の盛り場の姿を1500体の人形を配置して再現したものである。(パネル説明文)
「天保の改革」は1841年から43年にかけて、老中水野忠邦が主導した。徹底した倹約令や贅沢禁止令によって街から賑わいが消えてしまった話は、映画や小説によく出てくる。そのときの「取り締まり記録」なるものが残っているとは。こちらも驚きだった。
実物大「長屋」の温かみ
「町の暮らし」というコーナーには、棟割長屋の実物大模型があった。部屋の中では、指物職人が木を削っていたり、寺子屋の師匠が子どもたちを教えたりしている。お産を終えたばかりの妻と産婆さん、見守る棒振り亭主の姿も再現されていた(写真③)。


<▲写真③ 左は寺子屋、右はお産の部屋>
どの部屋も6畳ほど、窓はない。壁を通して隣人の息づかいまで聴こえてきそうだ。ぼくはこれまで読んできた時代小説と、そこに出てきた長屋のことを思い出していた。
宮部みゆき『きたきた捕物帖』
永井紗耶子『絡繰り心中』
西條奈可『心淋し川』
砂原浩太朗『夜露がたり』
加藤正人『碁盤斬り』
佐伯泰英『居眠り磐音』
高田郁『みをつくし料理帖』
藤沢周平『用心棒日月抄』
目の前にある実物大模型の長屋は、小説から想像してきたよりも狭く感じた。でも、なんか、とても温かい。人形が豊かな表情や真剣な仕草をしているためなのか。どこからか、えも言われぬ郷愁がわいてくる。
江戸城と大名屋敷
模型でもうひとつ驚いたのは、江戸城や武家屋敷の巨大さだった。江戸城の1/200模型(写真④)を見て、皇居の400年前の形状を初めて知った。天守閣のもとにこんなに多くの御殿が連なっていたのか。

御殿の一部、忠臣蔵で有名な「松の廊下」の模型(写真⑤)も初めて見た。L字型で長さは50mもあったとは。ほんの10日ほど前に、浅田次郎著『黒書院の六兵衛』のテレビドラマを妻と観たばかりだった。白砂の広場に面した長い廊下と襖の松をながめた。

越前藩主上屋敷の模型の横に、同じ広さの町人町の模型があった(写真⑥)。町人たちの家の小ささが一目でわかる。もちろん、庶民の多くが暮らした長屋はもっと小さい。

菊竹請訓の「大胆」高床式
スカイハウスとの共通点

この博物館は、建築家の菊竹清訓(きくたけ・きよのり、1928~2011)が設計し1993年に開館した。4本の柱が4-7階を支える高床式になっていて、4階と5階は東西に大きくせり出している(写真⑦)。いま見ても、かなり大胆な構造だ。

菊竹請訓は、ぼくが大学で建築を学び始めた1971年にはすでに著名だった。出雲大社庁の舎(1963年)、都城市市民会館(1968年)などの設計だけでなく、メタボリズム理論の提唱者としても活躍していた。ぼくは初期の自邸「スカイハウス」(1958年、写真⑧)が、もっとも強く記憶に残っている。
江戸東京博物館は開館すこし後に訪れたことがあった。およそ30年ぶり2度目の今回、両国駅から外観(写真⑦)を見てすぐスカイハウスを思い浮かべた。スカイハウスも高床(ピロティ)だった。正方形の床の各辺中央部に設けた壁柱4本が、フロアと屋根を支えていた。この建築家の根っこ、骨のようなものを感じる。
日本橋→富士 歌舞伎 時計店

大胆な高床式の構造は改修後の常設展示にも引き継がれ、生かされていた。6階の入り口から入ると、実物大の「日本橋」が、5階からの吹き抜けに斜めにかかっている(写真⑨)。その橋を歩いていくと正面の壁に富士山が映っている。中央にくると左下に歌舞伎小屋が見える。江戸「中村座」の正面を原寸大復元だった(写真⑩)。


中村座は、いわゆる幕府公認「江戸三座」のひとつだ。永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』の舞台になっている森田座も三座のひとつだったから、妙にうれしくなった。看板に描かれた文字や絵が映画のシーンを思い出させる。
実物大「日本橋」から右下に見える「服部時計店」は、銀座4丁目にあった建物の復元だ(写真⑪)。博物館の改修前は、明治初期に発刊されていた朝野(ちょうや)新聞社屋の復元模型だった。朝野新聞が明治26年に廃刊になり、服部時計店が買収して時計塔を増築したという史実にもとづき、今回の改修で時計店の模型に変わった。
強力アイコン競演→庶民の喜怒哀楽
いまふりかえると、ぼくが入館した時は「鳥の目」だった。建築そのものの構造とか大きな模型にまず目がいった。大胆な高床式の構造が、「日本橋」と「富士山」と「歌舞伎小屋」と「銀座時計店」という強力なアイコンの競演を可能にしている―。そんな理屈を鳥の目は告げてきた。
展示をたんねんに見ていくうちに、ぼくはすこしずつ「虫の目」になっていった気がする。わかりやすいアイコンたちの競演を支えているのは、史料に忠実で精巧な模型や人形の力ではないのかと。
そしてさらに、模型の細部のていねいさや、人形ひとつひとつに施された表情の豊かさに気づいて驚き、惹きつけられていった。江戸と東京の街で暮らしてきた庶民の喜怒哀楽が、ほんわか漂っているようにも感じたのだった。
