9 名古屋 地元を旅する

寄稿:「幻の五輪」が生んだ「元気ナゴヤ」

ソウルに完敗 屈辱バネに 「空港・万博」を誘致

(日本経済研究所「日経研月報」2005年7月号)

 (目次)
■ナゴヤに熱視線   ■3つのエンジン
■トラウマと苦い歴史 ■バブルに踊らず
■五輪あれば万博なし ■試される「民の力」 

■ナゴヤに熱視線

 なんだか最近、背中がもぞもぞする。雑誌やテレビで、こんな見出しや表現が増えているからだ。

 「元気なナゴヤ、その秘密とルーツ」
 「最強の名古屋経済がニッポンを変える」
 「隠れたナゴヤめしの魅力、食べまくり」

 私は純粋な名古屋っ子ではない。京都府舞鶴市で昭和27年に生まれ、高校まですごした。しかし大学は名古屋を選び、そのまま地元新聞社の記者になって30年を超える。「準ナゴヤっ子」として正直に言うと、自分の街がこんなに全国から注目を集めることになるとは、期待も予想もしていなかった。それが、冒頭の「もぞもぞ」の誘因である。

 住んだことがない人から見ると、ほんの少し前まで、名古屋はこんな印象だったろう。

 「信長、家康、秀吉を生んだ土地」
 「尾張名古屋は城で持つ?」
 「味噌煮込みにきしめん」
 「広い道路と平べったい地下街」
 「生活は質素、冠婚葬祭は派手」

 どうひいき目に見ても、大阪や横浜をしのぐような傑出した魅力にはとぼしかった。だから「大いなる田舎」「白い街」などと呼ばれてきた。

 潮目が変わり出したのは90年代後半だったろうか。女性誌が名古屋の若い女性の着こなしに注目しだした。有名ブランド品をさりげなく持ち、ちょっぴり良家の子女風を「名古屋嬢」と名づけた。 もちろんシャチホコで有名な「城」のもじり。三世代同居率が高く保守的な風土をうまく切り取った。

 そのうち、名古屋っ子しか見向きもしなかった「みそかつ」や「あんかけスパゲッティ」にも人気が出て、東京にも店ができた。中古ブランド品を売買する「コメ兵」も銀座に店を構え、名古屋独特の「お値打ち」感覚が他地区にも認められつつある。

 「古くさい」「保守的」「ダサイ」。名古屋へのそんな見方が、急反転しつつあるのだ。

3つのエンジン

 もちろん、反転をもたらすエンジンがある。海を埋め立てて造った中部国際空港、大阪以来となる愛知万博、そしてトヨタ自動車の3つだ。

 従来の空の玄関は名古屋市の北、小牧市にあった。新空港は2月17日、名古屋の南、知多半島の常滑沖で開業した。国内便との乗り継ぎが便利なことやテーマパーク並みの観光施設が売りだ。湯につかりながら離発着を眺められる大衆浴場もある。

 愛知万博はその1か月後の3月25日、名古屋の東部丘陵で始まった。大阪以来35年ぶりの総合博でテー マは「自然の叡智」。環境博とも呼ばれる。

 空港も万博も国家事業だ。これほど集客力がある国家事業がふたつ、同じ年に同じ地域で結実するのは過去に1度だけだろう。東京五輪が開かれ、東海 道新幹線が開通した1964年だ。

 今回の2大事業は直接投資だけで2兆数千億円にもなる。関係の道路や橋の工事も、ほかの地域よりも優先的、集中的にこの地域で行われた。

 3番目のエンジンであるトヨタは、その「快走」ぶりが突出している。昨年3月期の連結純利益は1 兆円の大台に乗り、ものづくり分野では「世界一の稼ぎ頭」になった。

 この地区には自動車の部品メーカーが集積し、工作機械も絶好調だ。さらに日本ガイシ、ブラザー工業、ノリタケ、日本特殊陶業、マキタ、カゴメ…。大阪の有力企業は次々と本社や本拠を東京へと移した。しかし名古屋企業は、生産現場に腰を据え、東京より世界を見ながら本業に打ちこんできた。

 このため、東海地区の鉱工業生産指数は03年後半にはバブル期をしのぐ水準に戻った。失業率もこの 2年、全国平均よりはるかに低い。

 トヨタはまた、万博と空港をヒトとカネの両面から後押ししている。万博協会の豊田章一郎会長はトヨタの名誉会長。空港会社の平野幸久社長もトヨタ英国工場の初代社長だった。新空港は徹底したコストダウンを進め、建設費を国の見積もりより22%、1,700億円も安くした。「トヨタ方式の本領発揮」と 公共事業関係者に驚きを与えている。

トラウマと苦い歴史

 都市の魅力という点で、名古屋への評価はこれまでなぜ低かったのか。それを解くカギは、1988年五輪を名古屋へ誘致しようという運動が大失敗に終わっ たことにある、と考えている。

 運動の成否を決めた IOC 総会は、1981年9月30 日、ドイツ南部の保養地で開かれた。名古屋は直前まで勝利を確信していたが、結果はソウル52票、名古屋27票-。ダブルスコアで大敗した。

 発表は日本時間の午後11時45分で、日本にも深夜、テレビ中継された。サマランチ会長が壇上でメモを開き「ソウル」と発表した時、名古屋の祝賀会場に集まっていた誘致や報道の関係者たちは、しばらく呆然自失の状態に陥った。

 このときのトラウマは大きく、かつ深かった。なぜ負けたのか。しっかりした検証は少ないが、運動当初は名古屋に有利に展開し、油断したのは事実らしい。意識の底に韓国蔑視もあったかもしれない。 官邸や外務省の取り込みも不十分だった。市民による反対運動の影響をあげる声もある。

 ソウル側は「南北分断の融和に」「途上国で初めて」と訴え、途上国の共感を得たとされる。

 国際性のとばしさ、政治力の弱さ、自己PR の下手さ…。このとき露呈した欠点はその後もさえない話題ばかりを名古屋にもたらす要因になる。

 まずは92年3月の「名古屋飛ばし」騒動。東海道新幹線に「のぞみ」が初登場した際、JR東海は飛行機との競争を最優先し、東京発の始発を大阪直行とし名古屋には止まらないダイヤにした。この「飛ばし」は、著名外タレがコンサートを名古屋では開かない時にも、メディアが象徴的に使った。

 タレントのタモリがテレビで「エビフリャー」を連発し名古屋弁をからかったのもこのころだ。

 96年12月には、2002年W杯の国内10会場選びで、愛知県はまたも落選した。東海・北信越ブロックで静岡と新潟に敗れた。自民党が直前の総選挙において愛知県で大敗したことへの仕返しをした、とまでささやかれた。

 こんな事態のたびに、名古屋っ子は、またかと肩を落とし、じっと耐えてきた感がある。

 ■バブルに踊らず

 では、仮に名古屋が88年五輪の誘致に成功していたらどうだったか。ここから後は、私の推測だ。

 カギは「88年」という年にある。このころ日本はバブルのど真ん中にいた。株も土地も値上がりを続け、内需は拡大。東証平均株価は翌89年の大納会の 12月29日、3万8,915円の最高値をつけた。しかし90年になると下降に転じ、値下がり基調は一昨年4月までの13年も続いた。

 地価も1991年をピークに一部商業地を除いて今も下がり続けている。

 もし88年に名古屋で五輪があったら、名古屋の土地はもっと値上がりしていただろう。含み益や売却益で別の土地や株に手を出す企業や人は増え、バブル崩壊の傷はより深刻だったのでないか。

 いま元気な名古屋企業は、バブル期も浮かれずに地道にモノづくりに励んだ。それが、この地区がバブル崩壊でも深手を負わず、東京や大阪より早く元気さを取り戻す最大の要因になったとみる。

 代表格のトヨタはバブル期に何をしていたか。まずは社内体制固めだった(年表参照)。82年の工販合併で生産と販売が32年ぶりに一体になり、創業者喜一郎の長男、章一郎氏が社長に就任していたからだ。85年以降の円高に対応するためにも、生産を海外へ移すため、余力は米GM との合弁や英国工場の準備に注いだ。「シーマ現象」に代表される国内のバブル景気に浮かれず、海外で種をまきながら「愚直」に車づくりの進化に励んだ。

関連年表 (ゴチックは万博・空港)
1981年09月 名古屋が88五輪誘致で敗北
・1982年07月 工販合併、章一郎氏が社長
・1985年12月 愛知の政財官が中部空港調査会
・1988年05月 トヨタ・ケンタッキー工場稼働
・1988年09月 ソウル五輪開催
・1988年10月 県と経済界が「愛知万博」発表
・1991年11月 新幹線ダイヤで名古屋飛ばし  
・1992年09月 トヨタの英国工場が生産開始  
・1994年05月 章一郎氏が経団連会長に就任
・1996年12月 02年W 杯会場で愛知落選  
・1997年06月 05年万博は愛知、空港同時に
・1997年10月 トヨタが世界初ハイブリッド車
・1998年07月 トヨタの中国エンジン工場稼働
・1999年12月 JRツインタワーズがオープン
・2002年05月 経団連発足、会長に奥田氏  
・2004年05月 トヨタの純利益が1兆円突破
・2005年02月 中部国際空港開港
・2005年03月 愛知万博開幕
・2006年09月 名駅前にトヨタ毎日ビル完成
・2007年 団塊の世代が定年を迎える

 トヨタは現在、利益の7割を米国市場であげている。欧州やアジアでも利益が出るようになり、80年代に種をまいた海外事業がどんどん実を結んでいる。 名古屋で五輪があったら、トヨタといえども、ここまで徹することができただろうか。

五輪あれば万博なし

 もうひとつ決定的なことは、もし五輪誘致に成功していれば、愛知万博も、この時期の空港開港もなかっただろうということだ。

 愛知万博構想の表明は1988年10月だった。ソウル五輪が閉幕してから2週間後の18日、愛知県知事や名古屋市長、地元財界が会議を開いて「21世紀初頭の万博開催を目指す」と発表した。関係者はソウル五輪の間、万博構想を温めていたのだ。万博構想は「幻の五輪」から生まれたといえる。

 愛知万博の「05年開催」が決まったのは、97年6 月12日、南仏でのBIE 総会だった。誘致表明から 9年がたっていた。このときのライバルはカナダ・ カルガリー。愛知は前年に W 杯会場誘致でも失敗 していただけに「背水の陣」で臨んだ。

 相手を研究し、多数派工作も周到に重ねた。トヨタも海外拠点を活用して各国に積極的に働きかけた。章一郎氏は経団連会長になっていたし、官邸や外務 省の協力取り付けもぬかりはなかった。

 投票の結果は愛知52票、カルガリー27票。81年の IOC 総会と勝ち負けの票数は同じで、愛知・名古屋には結果は逆。「偶然」で片づけるにはあまりにも強い因縁を感じさせる票数となった。

 この結果を受け、当時の運輸大臣が翌日の記者会見で「中部空港の開幕も万博にあわせたい」と発言し、中部空港の05年開港も固まった。

 中部国際空港の建設運動も、始まったのは五輪誘致失敗の後だった。地元に調査会ができたのは1985年だ。もし愛知が万博でも負けていれば、国や愛知県の苦しい財政を考えると、中部空港開港は05年よりかなり後ずれしていただろう。

ポスト万博、試される「民の力」

 新空港は順調だ。ほぼ見込み通りの利用客が訪れ、収入の4割は期待通り飲食や買い物から得ている。路線増設を計画する航空会社も多い。海外便への乗り継ぎが成田や関空より便利だともっと地方に知られれば、万博後も心配はなさそうだ。

 愛知万博も入場者目標の1,500万人は楽に実現できそうだ。大阪博は私が高校3年の時で、月の石を見るため5時間半並んだ。愛知万博にはそんな「時 代の熱気」はないが、テーマ「自然の叡智」をしっかり受け止めていて「中身」は濃いと思う。

 それでも名古屋人は、突然の名古屋ブームにも万博にも、さほど浮かれているようには見えない。五輪誘致失敗とその後のつらい時期、万博の当初案を巡る対立の激しさを経験したからだろう。

 あるアナリストは名古屋ブームをこう評する。
「信長・秀吉・家 康の三英傑を輩出した戦国時代以来、400年ぶりの出来事でないか」

 トヨタ幹部はつぶやく。
 「これは、 ほめ殺しではないでしょうか」。

 そんな慎重な体質だからか「ミニバブル現象」 と「ポスト万博」を心配する声の方が多い。

 昨年の公示地価の商業地値上がり率で、全国上位10地点のうち8地点を名古屋市内が占めた。オフィスの賃料も人件費も上がっている。ところが万博後を見渡すと、空港・万博のような強いベクトルは見あたらないからだ。

 特に2007年には名古屋駅前にトヨタ毎日ビルなど超高層ビルが相次いで誕生する。仮に需要が一気に落ち込めば、オフィスや店舗の供給過剰が生じて 「反動大不況」に見舞われる恐れはある。「名古屋の 2007年問題」である。

 その一方で楽観論も根強い。万博は終わっても空港とトヨタというエンジンは動き続ける。名古屋駅前の新ビルにはトヨタ自動車の国際部門が東京から引っ越してくる。ビルができる頃、トヨタは生産台数でも米GM を抜いて「世界一」になっている可能性が高い。新ビルはその象徴になる。

 万博も、終わればみなおしまい、ではない。半年の期間中に無数の出会いを生み、それが万博の遺産になるだろう。ボランティア、イベント、ビジネス、 客と客。わずか数週間、所詮はアスリートとテレビのための祭典である五輪との最大の違いだ。

 この地域は五輪誘致失敗に耐え、バブルに踊らず、失われた10年を乗り越えた。その「民の力」が万博の遺産を生かすと信じている。名古屋っ子にとって、今回の思わぬ名古屋ブームで得た大きな自信も遺産のひとつであり、ほかの遺産を生かし育てていく大きなエネルギーになるだろう。

 (注) 中日新聞社名古屋編集局の経済部長だった2005年、日本経済研究所から依頼されて書いた文章。月報7月号の「地域情報  北から南から」欄に掲載された。 

こんな記事も書きました