4 評論 時代を考える

寄稿「ナゴヤはどこからきてどこへいくのか」

 (「愛知の建築」2017年11月号への寄稿)

 この欄で私は、戦後70年の2年前、名古屋の戦災復興について次のような持論を紹介しました。

 「すばやく大胆な復興は100m道路に代表される復興案のおかげ。それを可能にしたのは碁盤の目の町割りだった。キーマンは清州越しを命じた家康と復興プランを描いた田淵寿郎。でも名古屋っ子はふたりの遺産である久屋大通を生かし切れていない」

 きょうの文章はその続編です。下の年表を見てほしい。新幹線が開通するまでを復興期とした。地下鉄を走らせ、名古屋城を復元した。久屋大通を整備し、真ん中にテレビ塔を誕生させた。

 そのあとに栄の全盛期が訪れる。けん引したのは消費文化。代表格は4つの百貨店で、新聞は「4M」と呼んだ。その勢いは80年代後半のバブルにつながり、身の丈を超えた泡の中で頂点を迎えた。

 その泡は90年代になると一気にはじけたが、名古屋の傷は浅かった。地元にはトヨタ系をはじめモノづくり重視の堅実な会社が多く、バブル期に土地や財テクにあまり手を出さなかったからだ。

「幻の五輪」が生んだ「元気ナゴヤ」

 もうひとつの理由は81年に「88年五輪誘致」を争いソウル52票、ナゴヤ27票と完敗したことだ。もし88年五輪がナゴヤだったらバブルに酔い、深い傷を負っていたろう。
 バブル崩壊後、名古屋の政財界は中部空港と愛知万博へと地道に動いた。97年BIE総会は「05年万博誘致」を争いアイチ52票、カルガリー27票。票数は同じで愛知・名古屋には結果は真逆。因縁を感じる。「空白の10年」は名古屋には「空博の10年」だったのだ。

 そして2005年、空港と万博がこの地で結実した。巨大な国家事業の同時実現は「新幹線+東京五輪」以来。雑誌の名古屋特集には「なごやめし」「名古屋嬢」の見出しが並んだ。一連の流れを私は「『幻の五輪』が生んだ『元気ナゴヤ』」と関連づけたい。

かって4M いま3M

 この元気を体現したのが名駅だ。国鉄民営化と新幹線快走が2000年、JR東海・タワーズにつながる。それがトヨタ・ミッドランド、三菱・大名古屋ビルへと連鎖した。けん引3社の象徴が「新3M」。JRリニア(磁気浮上式=Maglev)、トヨタ燃料自動車MIRAI、三菱旅客機MRJ。名古屋らしく、こんどは乗り物の「M」でくくってみた。

 さてナゴヤは次にどこへ向かうのだろうか。私は「戦後復興の象徴」の「復活」に期待する。とくに久屋大通再整備と名古屋城木造復元に大きな可能性を感じる。根っこはリアル空間への志向。そして「品川まで40分」が現実となれば、「時間」が主役になってナゴヤを新次元へと導くだろう。

  (注) 愛知建築士会の外部理事を続けていた2017年に再び、会報「愛知の建築」への寄稿を依頼されて書いた文章。2017年11月号「論叢」欄に掲載された。

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