江戸情緒を無料で 新名所になれるか
名古屋・栄に11月末に完成した三菱UFJ銀行名古屋ビルの1階に「貨幣・浮世絵ミュージアム」が開設された。旧東海銀行本店の貨幣資料館を衣替えし、新たに浮世絵を収蔵品に加えてオープン記念「歌川広重 東海道五捨三次展」も開かれている。江戸の文化と情緒を味わえる場が都心に生まれ、しかも無料なので、栄大好き市民のひとりとしてとてもうれしい。なんとか新名所に育ってほしいけれど、広さや持続性に不安も残った。
(名古屋市中区錦、2021年11月29日開館)
<▲ (左)広小路から見た新ビル (右)通り抜け通路に入り口>
■大判の裏も見れます 「両替屋」リアルに
入るとすぐ左が貨幣展示室だ。展示されている紙幣やコインの7割は日本で、海外のも3割ほどある。収蔵は1万5千点もあるのによく整理されている。東海銀行時代からの蓄積が生かされているようだ。
中央に衝立が4つ並んでいて、大判、小判を透明ボードではさんで縦に固定してある。表の仕上げを間近に見たあと、反対側に回れば裏側もすぐ見ることができる。壁のスライドドア式展示も展示空間の有効利用につながっている。
<▲ (左)透明な衝立に貨幣が…(右)江戸時代の両替屋 >
ぼくは「江戸時代の両替屋」の復元がいちばん面白かった。細長い紙をつづった帳面と墨文字が生々しい。銀行仕事の原点だったのだろう。
キャッシュレス化が進めば
現実の世界ではキャッシュレ化や通帳レス化がすごい速さで進んでいる。紙の銀行通帳はぼくも半年前にやめた。いまの1万円札や100円硬貨も、もしかしたらぼくが生きているうちに姿を消し「令和の貨幣」としてここに展示されるかもしれない。キャッシュレス化が進むほど、このミュージアムの価値は高まるだろう。
■広重『五拾三次』全55点 旅情と郷愁
浮世絵のオープン展は『保永堂版 東海道五拾三次展』。歌川広重が1833年ごろに原画を描いた55点と当時の工程を観ることができる。
この風景版画は広く知られていて、葛飾北斎『富嶽三十六景』と並ぶ傑作とされる。ぼくも展覧会やテレビ番組でその一部は何度か見てきた。いまはネット上でも全作品を簡単に観ることができる。
しかし会場で「日本橋」から「三條大橋」までの55枚を順にみつめていくと、当時の旅人たちの世界観に広重の画法とがからみあって、脳にずしーんと迫ってくる。200年前の宿場町への旅情や、そのままずっととっておきたいような郷愁にかられた。
ミュージアムは1800の浮世絵を収蔵しているとパンフにある。『五拾三次展』は来年2月13日までなので、次の企画が待っているのだろう。丸善も近い。楽しみな立ち寄り先が栄にまたひとつふえた。
街道が「宮」から先も北上していたら
53宿場の地図を眺めていたら、やはり尾張南部の切れ目に目がいく。熱田神宮の南の42番「宮」で途切れ、いきなり南西に折れて、三重の43番「桑名」まで飛んでしまう。ここは有名な「七里の渡し」。旅人は船に乗り伊勢湾北部を行き来した。
もちろん「七里の渡し」が木曾、長良、揖斐の三川を避けるためだったことは知っている。でも考えてしまう。ミュージアム西側の本町通りは熱田神宮から名古屋城への南北幹線路だった。もし街道がそのまま北上していたら、「宮」の次は、いまこのミュージアムがある「広小路」か「本町」だったかもしれない…。
もしも東海道が本町を通っていたら、名古屋城下の町民が江戸や京の文化に触れる機会は飛躍的に増えていただろう。この広小路が宿場になっていたら、街文化はもっと重層的で豊かになっていたかもしれない…。そんな妄想を「宿場地図」にかぶせていた。
■一等地に「江戸」 潔い?「無料」
新ビルは10階建てで1階に南北の通り抜け通路がある。ミュージアムは広小路通りから50mほどのところに入り口がある。南は広小路通り、北は錦通りだから、商業テナントに貸せばそれなりの家賃が期待できそうなところだ。
<▲ (左)広小路側から通路を見る (右)錦側から通路を見る >
しかも新ミュージアムは貨幣だけでなく、新たに浮世絵も収蔵品に取り込んで「江戸」風情を伝えてくれる。名古屋の都心は米軍空襲で焼かれ歴史的建造物はほとんど残っていないから、貴重なミュージアムになるだろう。
それだけに「入館無料」には驚いた。潔い社会貢献なのだろうか。銀行法などの法的なしばりがあるのだろうか。いずれであっても、魅力ある企画と収集をこれからずっと持続していくには、一定の入場料収入や市民援助が必要ではないかと心配になってしまった。
■もったいない もうすこし広ければ
立地は最高、無料もうれしい。だけど観終わってからぼくは、持続性だけでなく、展示空間の「質」にも不安も感じた。
なんといっても、もうすこし広さがほしかった。貨幣だけなら地味な展示だろうけど、コレクションに追加した「浮世絵」は安定した集客力を期待できそうなのに、スペースは貨幣よりも狭く、細長くて、窮屈感を否めない。
余韻を味わえるスペースがほとんどないのも残念に思った。窓がない。椅子をおけそうな余裕もなさそうだ。鑑賞がすんだら、すぐに退出するしかない感じになってしまっている。
無料なのだからやむをえない。欲をいえばきりがない。そうわかりながら、ぼくは思ってしまった。この立地とこの中身なのに、この中途半端さはあまりにももったいない-。
ミュージアムは2階か3階に上げ、もっと広い展示室を確保できなかったろうか。小さくてもいい、本町か広小路か錦の通りに面して窓があるロビーがあれば、現代の街並みを眺めつつ貨幣や浮世絵との「時間差」を味わえる場になったように思える。リピーターを呼び、栄の新名所になるのを期待するならば…。
■「1階に文化」前提か テナント誘致事情か
こうした不安や不満が生じる可能性を計画に携わった人たちはわかっていたとも思う。「無料」にその覚悟を感じる。ぼくも昨年まで似た立場にいた経験から、こんな形になった理由を仮説として推測してみると―。
仮説1 「1階は賑わい・文化」が大前提に?
- 広小路は戦前まで「広ブラ」の名で愛された繁華街だったが、戦災復興の過程で金融機関が建ち並び「賑わい」はとぼしくなった。
- このため都心に再開発の動きが出始めた20年ほど前から、市や地元商店街は「建て替え後の1階、通り沿いには賑わいや文化施設を」を方針に掲げてきた。今回の建て替え計画もそれを前提に進められ、しばりになったかもしれない。
- UFJ新ビルの1階には広小路側に2つの店舗が入居した。上階の銀行・証券オフィスのエントランスは錦通り側に集めたので、ミュージアムは通り抜け通路に面して、窓なし配置するしかなかったようにみえる。
仮説2 優良な商業店舗の誘致を期待できず?
- もし有力テナントをもっと誘致できるめどがあれば、ミュージアムは2階か3階にする選択肢もあったと推測する。しかしここは栄と伏見のちょうど中間で、商業的にはちょっと弱い。雑貨・衣料は売り上げが落ちてきていたし、2年前からはコロナ禍にある。銀行ビル1階に「ふさわしい」「高家賃」テナントの誘致は難しかったかもしれない。
■資本の論理と算盤 「宗春」から290年
かつてここには1961年から東海銀行本店が建っていた。ビル内に金融記者クラブがあったので、担当記者だった30代後半の2年ほど、週に3-4回は通った場所だ。のちに「東海」の名が消えるとは当時は思いもしなかった。
ミュージアムの位置や広さは、都心再開発では避けられない「算盤」とか、行政「指導」の結果だったのかもしれない。その前の「東海銀行」までさかのぼると、ぼくの「不安」も含めて、バブル崩壊と金融再編という「資本の論理」が根っこにある、と考えるのは観念的すぎるだろうか。
新ビルの写真を撮るため周辺を歩いていると、向かい側の広小路通り歩道に、名古屋市が設置した立派な歴史案内板を見つけた。題して「広ブラHISTORY 享保15年(1730) 徳川宗春 尾張藩主となる」。
第7代の尾張藩主になった宗春は、将軍吉宗の「質素倹約」に反発して、尾張では商業や芝居・興行を自由化した、と説明文にある。締めの一節にはこう書かれてある。
倹約令で停滞していた名古屋の街は活気を取り戻し、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた