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ただよう不穏 うごめく狂気…志水辰夫の最新作『負けくらべ』

介護士の知力と矜持 86歳のシミタツ節

 (小学館、2023年10月8日発行)

<▲人気作家の賛辞が帯にずらり>

 帯の惹句がすごい。「伝説のハードボイルド作家86歳、19年ぶりの現代長編 ! 」。ぼくにとっても14年ぶりだったが、読み始めるとすぐに「あーこれ、これがシミタツだ」と没頭できた。ごくふつうの描写なのに、冒頭から行間に不穏さが漂っている。やがて人の心にうごめく狂気が鎌首を上げてくる。66歳の介護士がさりげなく披露するギフテッドの知力が、最後には矜持と一体化して昇華する。86歳にしてこの熱量—。シミタツはまだ現役だった。

■まっとうな「ギフテッド」

 主人公の三谷孝は66歳の介護士だ。なにごとにも控え目で、相手の話をとことん聞いて寄り添ってきた。認知症の老人に接する際の描写には、介護のプロとしての考え方やノウハウがいくつも出てくる。86歳の作家は認知症を自分ごとととらえ、学んできたのだろう。

 そして作家は、この介護士に「ギフテッド」の才を持たせた。生まれつき、対人関係をうまくこなす力に恵まれていて、介護の仕事に生かしてきた。そして三谷にはもうひとつ、秘めた能力があった。

 空間認識力と記憶力—。これがこの小説の展開を引っ張っていく。三谷が見ている情景の描写は、なんでもない平明な文章のつながりなのに、常人が見過ごすような言動や動きや形が含まれていることが後でわかってくる。

 それを読むぼくは、背中がざわざわする不穏な感じを行間から感じる。内閣情報調査室への協力のなかで、三谷の脳の膨大の記憶の一部が何かの拍子で蘇っていくたびに、不穏さの正体がすこしずつ形を見せてくる。

 老人に寄り添う介護士というまっとうさと、ギフテッドな能力の鋭利さ―。この対比が不思議な魅力を放っている。

■「IT起業家」「出自」の対比も引力

 もうひとり、大河内牟禮(むれ)という30代の男が登場する。こちらはハーバード出のITベンチャー起業家。三谷との会話には、日米欧の技術開発力や人材について硬派な比較論も出てくる。ここでも作家は、現代要素を取り込んで小説の骨格にしている。

 大河内は華やかな経歴に見えるが、父は闇の世界で財を成した資産家で、実母は、妻の女中だったことから、一族や女性には常人とは異質の価値観を持っている。

 この一族が醸しだす異質な感じも、この小説の大事な核になっていく。異質な感じはときに狂気をはらんでいて、物語の背後でうごめいている。

 時代の先端をいく起業家としての華麗さと、出自によって抱えることになった確執—。この対比も小説に引力をもたらしている。

■17冊目のシミタツ「舐めるように」

<▲カバー裏の筆者略歴>

 この作家は昭和から平成にかけて、一見するとどこにでもいそうな男を主人公にしたハードボイルドの現代小説で名作を連発してくれた。

 しかし2004年ごろから時代小説に軸足を移していた。それが今回の「19年ぶりの現代長編」というコピーにつながっている。

 ぼくはこれまでに現代小説16冊を読んだ。うち最後の2冊は、読後に印象記をノートに手書きし、このブログサイトを3年前に開設した時にデジタル化し収録した。その2作と、印象記につけた見出しはこうだった。


『きのうの空』(2001年発行)
 流される「個」 隅々まで染み渡る

『男坂』(2003年発行)
 険しい下り道 あふれる情熱 染みるなあ

 新作『負けくらべ』の帯には、著名な人気作家5人からの極上の賛辞が並んでいる。馳星周の次のひとことにぼくは同感した。

 「これ以上の至福はない。舐めるように読んで堪能した」

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