2 小説 物語に浸る

ゴッホ&ゴーギャン  疼きと熱情 … 原田マハ3冊目『リボルバー』

突き抜ける創出力 ぼくも連想を愉めた

 (幻冬舎文庫、初刊は2021年5月)

 いやはや、まいった。どこまでが史実でどこからが創作か、詮索を途中で諦め、どっぷりつかったまま読み終えた。ゴッホが1890年に自分の腹を撃ったとされる「リボルバー(拳銃)」 は実在するが、著者は「もうひとつの銃」を創出し、天才ふたりの凄まじい疼き、衝突、嫉妬を塗り重ねていく。作品描写も冴えわたり、前2作より世界観の広い極上アートミステリーになった。ぼくが「錆びたリボルバー」から浮かべる連想も、ビートルズから裕次郎へと、愉快に広がっていった。

■ビートルズのアルバム名だ!

<▲CDの冊子表紙>

 リボルバー(拳銃)は触ったこともない。映画や写真で目にしたことがあるだけだ。

 だからこの題名を初めて読んだ時、まず浮かんだのはビートルズの『REVOLVER』だった。1966年に発売された傑作アルバムのタイトルである。

 自宅にあるCDケースを開いた。久しぶりに冊子を取り出してライナーノーツを読んだら、次のように書かれていた。

 アルバム・タイトルにはポールの提案が採用されている。日本公演に際して、警備に当たっていた警察官の携帯していたピストルの名前から「Revolver」の名前を思い付いたとされている。

<CD版『REVOLVER』の「解説」から>


 日本公演がらみだから、日本のファンには有名な話だろう。でもネットのWikipediaはまったく違う。

 「レコードは何をする?」「回転する!」「Great(いいね!)」というメンバーのやりとりから「リボルバー」となった。

<▲『Beatles REVOLVER』のWikipediaから>


 どちらが正しいかはともかく、小説との大事な共通点は「回転」にある。リボルバーの日本語は「回転式拳銃」。弾倉が回転するので、弾を再装填しなくても連続して撃つことができる。この点が小説のヤマ場では大事になってくる。

■リボルバー ゴッホ美術館で展示 パリで競売

<▲ゴッホの足跡。1996年「ゴッホ展」図録のP164から>

 ゴッホは1890年7月26日に、パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズで自らの腹を拳銃で撃って自殺を図った、とされている。2日後に弟テオに看取られて37歳で死んだ。

 この拳銃は、ゴッホが下宿先の主人から借りたもので、ゴッホが死んだ後に、下宿1階にできたレストランの壁に「錆びたリボルバー」がしばらく飾られていたとされる。この小説でも触れている。さらに、現代にいたるまで—

  •  ゴッホが自殺に使った可能性があるという拳銃は、死後126年もたった2016年の夏、オランダのゴッホ美術館の企画展『ゴッホと病』に出品された。
  •  さらには2019年6月、その「可能性」のある拳銃がパリで競売にかけられ、約16万ユーロ(当時のレートで約2000万円)で落札されている。

 1890年のゴッホの「自殺」をめぐっては諸説あり、他殺説さえあるらしい。筆者は、主人公の日本人女性にそんな経過を語らせながら、持ち前の想像力を目いっぱいふくらませていく。

 筆者の想像力の最大の対象は、ゴーギャンだ。ゴッホの死の2年前に南仏アルルで2か月の共同生活を送り、喧嘩別れしてしまった。ゴッホは別れ際に左耳下部を切り取る事件を起こし、包帯を巻いた姿は自画像でも有名だ。ゴッホの拳銃発砲はその2年後である。そこにもゴーギャンはからんでいなかったのか…。

■ぼくは『錆びたナイフ』を想起

 ゴッホが腹を撃ったとされる銃について、小説では何度も「錆びたリボルバーが土に埋まっていた」という表現が出てくる。ぼくはそれを読むたびに、この不気味な感じ、幼時に感じたことがあると思った。でもそれが何かは思い出せなかった。

 思い出したのは、後半の半ばだった。南太平洋のタヒチからさらに北東にあるマルキーズ諸島で1901年、ゴーギャンと暮らす妻で14歳のヴァエホが、家の前のひまわり畑で拳銃を見つける場面だ。

 ひまわりの根元の土がネズミくらいの大きさにこんもりと盛り上がっていた。また何か別の種を蒔いたのだろうか。そしてまた花が咲いたら、今度はその花を描くつもりなんだろうか。私じゃくて花の絵を。
 苦い気持ちが込み上げてきて、とっさに盛り土を思い切り拳で叩いた。そのとたん鋭い痛みが走った。私は小さく叫んでその場にうずくまった。
 何か硬いものが埋められている。痛みが治まるのを待ってから、私は両手で土を掻き、その何かを掘り出した。
 土の中から出てきたものは、拳銃だった。
 死んだ小鳥を両手ですくい上げるようにして手に取ると、ずっしり重い。私は息を詰めてみつめた。土まみれの銃。銃把(グリップ)に絵の具がかすかについている。(p246)


 そうだ、この感じは、あの歌だ。たしか『錆びたナイフ』。歌ったのは裕次郎じゃなかったか。歌い出しは「〽 砂山の砂を 指で掘ってたら まっかにさびた ジャックナイフが出てきたよ」…。暗いメロディーと裕次郎の低音が蘇ってきた。

<「’89 あのうたこのうた」から>

 手元に3冊ある昭和歌謡楽譜集を探したら、見つかった。『’89 あのうたこのうた2288曲』(CBSソニー出版)に歌詞 (写真右) が載っていた。
 
 Wikipediaによると発売は1959(昭和34)年で、当時ぼくは、京都府舞鶴市の山奥の小学校1年生。映画も作られ184万枚の大ヒットとなったというから、その後も何度も耳にして記憶の底に沈んでいたのだろう。

 それにしても「錆びたナイフ」の歌詞、やはり不気味だ。「砂山」と「錆び」と「ジャックナイフ」。大人社会の冷徹な魔訶不思議と、ひりひりするような切迫感…。これって、ゴッホとゴーギャンの間に屹立する「錆びたリボルバー」と同じ匂いを発していないか—。

 ゴッホもゴーギャンも「画業への疼き」を抱き続け、残された名画はいまも「ギラギラした個性と画才」を見る者に感じさせる。「錆びたリボルバー」には、強烈な二人と対峙できるだけの不気味な重量感がある。

■名画描写  検索画像とともに

 ゴッホとゴーギャンが残した名画を筆者が文章でどう描写するかも大きな愉しみだった。小説には写真は1枚しか使われていない。カバーのタイトル下にある『15本のひまわり』だけだ。


 しかし文章では、ゴッホがアルルでゴーギャンを待ちながら一気に描いたとされる4枚の『ひまわり』についても、ゴーギャンの回想という形式でたっぷりと表現している。4枚は、描かれているひまわりの本数が3本、5本、12本、15本と違う。

 4枚のタブローが壁に掛けられて、そのすべてにひまわりが描かれていた。素焼きの壺に生けられた、三本、五本、十二本、十五本のひまわり。いまを盛りに絢爛と開いている花、勢いをなくしてうなだれる花、枯れかけて花弁を落としつつある花。(p263)

 濃紺の背景の中でほとんど死にかけているかのようなひまわり、アクアブルーの背景と翡翠色の壺によく映えて咲き誇るひまわり、ペールブルーの背景と黄色のテーブルに置かれた同色の壺の中で乱れ咲くひまわり。もっとも目を引いたのはすべてが黄色すぎるほどの黄色のタブローだった。濃い黄色、強い黄色、やわらかな黄色、淡い黄色、背景もテープルも壷も、てんで勝手にほうぼうを向く花々も、複雑な色調の黄色で描き分けられている。にもかかわらず、ちっとも騒がしくなく、むしろ静謐で、完璧な調和をたたえていた。(p264)


 ぼくは手元のスマホでネット上からゴッホの作品画像を呼び出し、本と画面を交互に観ながら、あらためて4枚の『ひまわり』を味わった。後半の記述(引用のゴチック部)の絵は『15本のひまわり』だろう。ゴッホが描いた7枚の『ひまわり』のうち、最高傑作とされている。

 この「15本」はロンドンのナショナルギャラリーで展示されている。ぼくも2012年の旅行で妻と観た。残してあるパンフを確認すると、作品リストの『ひまわり』にはしっかり丸をつけている。なのに、膨大な数の展示品に圧倒されたのか、『ひまわり』をこの目で観た時の印象をほとんど思い出せない。11年前のことなのに、うーん、情けない。

■アートミステリーぼくの「3部作」

 この著者のたくさんの作品のなかで、ぼくがこれまでに読んでいたのは2冊だけ。『楽園のカンヴァス』『暗幕のゲルニカ』の印象記にはこんな見出しをつけた。

 衝撃作の迷宮 … 誕生と変遷 史実と創作 豊潤な謎


 ルソーの『夢』、ピカソの『ゲルニカ』…。いまもとんでもない磁力を放ちつづける稀代の傑作をど真ん中にすえた。しかもその存在感に負けないスケールの創作を施して、わくわくするアートミステリーの連作に仕立ててあった。

<▲帯の筆者紹介>

 主人公はどちらも近現代アートを学んだ日本人女性だった。ぼくにとって3冊目となった『リボルバー』の高遠冴もよく似た設定である。パリ大学で美術史を学び、パリのオークション会社に勤めている。この小説の核心「ゴッホとゴーギャンの関係」が博士論文のテーマだ。勝ち気で、茶目っ気もある。おそらく筆者の”理想の分身”だろう。

 この3冊しか読んでいないのに、ぼくは独断と偏見で「アートミステリー3部作」と勝手に呼んでいる。今作の世界観や創作のスケールが前2作よりうんと大きくなっていると感じたのもうれしい驚きだった。

 なんせ今度は、ゴッホとゴーギャンという、とんでもないキャラふたりが相手である。膨大な作品群をたどり、たくさんの書簡や論評を読み込む必要があっただろう。巻末の<主な参考文献>にも圧倒される。

 いやはや、まいった… この文章の書き出しのつぶやきをまた、繰り返している。第4作はどの画家のどんな物語になるのだろうか—。

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