いまこそ出番 街の建築家になれ
(2011年5月3日、名古屋市内のホテルで)
【注】日本建築家協会の東海支部が2011年5月3日に名古屋市内で開いたシンポジウムに、パネラーのひとりとして呼ばれた。以下はその際の自己紹介や発言のために事前に用意した手元メモの一部です。
■自己紹介を兼ねて
●芦原義信さんの「街並みの美学」
現会長である芦原太郎のお父さんの義信さんといえば、名著『街並みの美学』が浮かぶ。発刊は1979(昭和54)年。私が新聞記者になり初任地の富山に赴任した年だった。
ロマンティックなタイトルで、中身も具体的でわかりやすかった。何より世界各都市の街並みや名建築の写真が豊富に掲載されていた。「こんな論評を新聞記事で書きたい」と願った記憶がある。
●新聞記者と建築
その後、私は様々な分野の取材を担当した。事件・事故、地方政治、経済。そのうちに私の中の志向性が変化した。建築・都市の専門記者は、狭い道をより細く進むこと。日々の紙面はもっと広い世界の記事で埋め尽くされている。その最前線にいたいという気持ちが強まり、今日に。
したがって、建築を学んだのは青春時代の6年だけ。その後は新聞の記者・編集者として32年。そして昨年4月から企業のCRE担当として1年がたった。「建築にも強い関心を持ってきた新聞人」の立場で発言したい。
■職能について
●弁護士とジャーナリスト
本日のバネリストであるKさんの仕事の弁護士は、大変難しい試験を経て得られる資格が前提。しかもどこかの弁護士会に登録しないと仕事はできないと聞いた。厳格かつ明確な線が一般と司法の間に引かれている。もっとも、司法試験改革は必ずしもうまくいっていないようだが。
私の仕事の新聞記者はというとその対極、「無頼」そのもの。なんの資格もいらない。業界を監督する官庁もない。弊害も多々あるが、資格はもともとなじまない仕事と思う。
私がこの仕事についた時に「ジャーナリスト」になるには、新聞社か通信社、テレビ局に入社する道にほぼ限られていた。いまはだれでも、いつでもなれる。ネットに記事を発表して「ジャーナリスト」とか「フリーライター」と称すればいい。すでに米国では増えている。
新聞は生産者人口の減少、若者の閲読率の低下といった課題を抱えているが、この「だれでもすぐに記者になれる」というネット環境の中で、新聞はあてにされる紙面をどう届けていくかという課題に直面している。
●建築家の職能
さて、建築家はどうか。残念ながら、建築業界に縁がない人にはイメージが湧きにくい。そもそも建築家は一級建築士と同じくくりなのか、違うなら何が違うのか、と。顔が浮かんでも、片手で数えられるほどの一部のスーパースターだけだろう。
一般紙で最近「建築家」が話題になった記事というと、妹島和世(せじま・かずよ)と西沢立衛(にしざわ・りゅうえ)氏がプリツカー賞を受賞した時と、黒川紀章(くろかわ・きしょう)氏の2007年都知事選出馬くらいしか思い浮かばない。
一級建築士で自分の職業を「建築家」といえる自信がある人は、個人の名前で何らかの賞を得たり、メディアで「建築家」として紹介されたりした人のみだろう。
ちなみに私は、取材現場を担当している時は「新聞記者」と称していた。管理職になってからは「新聞編集者」。施設・営繕担当になったいまは「新聞人」としている。
●建築家協会とゼネコン建築家
建築家協会について実は私も、今回のパネリストの依頼があるまで知らなかったことがある。「一級建築士でも、ゼネコン設計部の建築家は加入できない」。驚きでした。JIA関東支部の市民向けホームページによると、その理由は「建築家は、依頼者の権利を守り社会的正当性を貫くために、工事施工の分野とは分離して中立的第三者の立場を保持しなければならない」という家協会の考えによるものと説明されている。
これまで何度も議論されてきた難題とは思いますが、ゼネコン排除の部分に、いま建築家協会が抱える問題の本質がある気がする。談合問題や設計料率論議のジレンマがあるかもしれない。
でも、ゼネコン設計部の仕事も「街並み」のかなりを担っているのだから、「美学」で手を携えることは可能ではないか。「社会と向き合う」をスローガンに掲げる芦原会長のもとで論議を活発化させてほしい。
■東日本大震災を受けて
●3.11の前か後か
東日本大震災は、日本の戦後のあらゆるものごとへの視線を、震災前と震災後に真二つに割る出来事になると思う。その被害はあまりに大きく、広く、深い。8.15の後か前かと同じ感覚だ。
政治も経済も文学も音楽も。もちろん、建築も。地球の営みのむごさと大きさ、人間の営みのおろかさと強さ。それらを内包した作品や発言でないと、これからは社会に響かないのではないか。
●揺れの被害の徹底分析を
いま、建築家に何ができるか。かつて学生時代に読んだ原広司さんの本のタイトルを思い出す。「建築に何が可能か」。いま、それほど能動的な意味を建築にゆだねる人は、いまはいないだろうけど。
まずは、今回の揺れと津波を徹底的に分析してほしい。
今震災でも、56年新耐震以後の建物はほとんど倒壊がなかったと聞く。本当か。二次部材の被害の方が大きいのか。津波は現代日本人には初めての規模の体験で、RC4階建てのビルが横転している写真を建築雑誌で見た。
そして原発事故は経過をきちんと知りたい。これまではこうだ。「自動で原発の稼働は自動停止した。しかし後の津波で非常用電源も喪失し、燃料を冷却する装置が働かなかった」。本当にそれだけだったろうか。東電も原子力安全委員会も「津波の高さは想定外」といえば、構築物の耐震設計関係者は批判されずにすむ。
でも一部に、本当は、激しい揺れによって内部の配管が破損し、冷却装置の冷却材が噴出してしまったのではないか、との見方もでている。「津波がくる前に冷却材を喪失していた」のではないかと。そうなると、福島原発事故の様相は変わる。建築と設備の耐震性に迫ってくる。
それらを突き止めるのは、新聞をはじめとする報道側の大事な使命。しかし原発の耐震設計には当然、建築家ともかかわっている。みなさんが直接かかわらなくても、プロとして、そのあたりに強い関心を持ち続けてほしい。
●原発をどうすべきか
その上で、原発を今後どうすべきか、建築家の問題としても議論してほしい。いくつかの選択肢がある。福島がどうなるかにもよるが、わかりやすい図式では、次の4つか。
- 新設も推進=今回の事故を教訓に安全性を高め、新設も進めて暮らしと経済発展を支える
- 当面新設せず=稼働中の原発のみ動かし、安全性を徹底論議をして次を決める
- フェイドアウト=稼働中のみ継続させ、問題発生時か40年定年で順次廃炉に。代替考える
- 即時停止=すべての原発をいますぐ停止して廃炉に。
どれにするかを決めるには、個々人がエネルギーと社会の関係の根底を決めなきゃいけない。特に、3と4は、かなりの覚悟がいる。
- いまの3割、電力が減っても生活できるか
- ほかの何かでまかなうにしても、その際に電気料金が倍ぐらいになってもいいのか。
- 日本の経済力が落ちたり、不況が続く恐れがあるがいいのか。
こうした問いは建築設計の心臓部にもかかわってくる。住宅にしろ、オフィスにしろ。エネルギーをどこからとり、どれくらい使うのか。そのためにはどんな生活スタイルなのか。設計の姿勢も結果も大きく違ってくるだろう。つまり、建築家の仕事も、原発をどうすべきかとリンクしてくる。「3・11」。あの日以来、どの職業も避けて通れないだろう。
●東日本の次は東海
震災がらみでもうひとつお願いしたいのは「次は、我々」の視点です。
東海地震は、前の発生から150年がすぎ、いつおきてもおかしくない、とされている。東南海と南海が連動する恐れも大きい。しかも浜岡原発は東海地震の震源域の真上にある。福島第一原発は震源から200km前後も離れていた。
東北の中心都市、仙台はこれまで何度も震度6クラスの地震に襲われてきた。2003年からだけでも震度5とか6を4回も経験している。つまり、仙台では、壊れるべき弱い建物はすでに壊れていて、新築は耐震の備えがきちんとできていた。それが今回、揺れそのものの被害が小さかった要因のひとつとみられている。揺れの周波数や縦揺れ、横揺れの質の問題もあるが。
一方、東海地方の中心都市、ここ名古屋はどうか。愛知県内に大きな被害をもたらした巨大地震のうち、直近は昭和21年までさかのぼる。65年も前の南海道地震。震源は紀伊半島沖でM8.0。その前が昭和20年の三河地震M6.8と昭和19年の東南海のM7.9だ。
つまり「8.15」の前後にドーン、ドーン、ドーンと三連発で襲われた。ところがその後は65年もの間、大きな揺れを経験していない。当時10歳の人でもいまは75歳以上。戦前戦後の悲惨な記憶が強すぎて、地震はほとんど語り継がれていない。いまの名古屋人にとって「最悪の天災」は1959年、52年前の9月の伊勢湾台風のままだろう。津波ではなく、高潮なんです。
つまり、ここ名古屋人のほとんどは戦後、大きな揺れに見舞われた経験がないまま、東海・東南海・南海の連動型巨大地震に備えなければならない。しかも震度5や6弱クラスでも倒れてしまう建物がたくさん残っている恐れがある。実際の揺れの体験がないので、口ではどう言おうが、新聞がいくら懸念や備えを書こうが、危機感は薄いだろう。
●コミュニティ・アーキテクト
こういうときこそ、建築家の出番ではないですか。
東北まででかけて危険診断のボランティアをされるのももちろん大事です。でも、それより私は、次のふたつを期待したい。
ひとつ目は、教訓の共有です。今回の揺れがどんなで、どんな建物がどんな風に壊れたのかをまとめてほしい。どんな対策が有効だったかも。建物は倒壊しなくても、天井が落ちたり家具が倒れたりしなかったか。学術的なものは建築学会にませる。具体的で使える教訓がほしい。
二つ目は、まとまった教訓を生かすこと。建築家のみなさんの元施主や地元に生かすことです。
かつて設計を手掛けた建物の施主を順に訪ねてほしい。もちろん「営業」ではなくて。耐震に不安はないか、相談に乗ってあげてほしい。建物の中や二次部材は大丈夫か、近くに不安な建物がないか、尋ねてほしい。
不安があれば、おせっかいかもしれませんがと耐震診断や予防策を提示してあげてほしい。その積み重ねが、「次」の死者やけが人の数を一人でも少なくすると信じています。それが、額はともかく、新たな報酬つきの仕事につながるかもしれない。
施主めぐりが終われば、次に自分が住む街、あるいは自分の事務所がある街の人々とも、防災談義の輪に加わってほしい。できることから、手をつけてほしい。どんな小さなことからでもいい。少なくてもはじめは設計料につながらなくてもいいと。
芦原会長は、雑誌日経アーキテクチャアの昨年10月のインタビュー記事でこんな発言をされている。「建築士会とはコミュニティ・アーキテクトを一緒に社会活動としてやっていこうとしています」。すばらしい計画だと思います。今回の震災は、そのコミュニティ・アーキテクト活動の第一歩を踏み出すきっかけになるのではないか。
●提案―「街建」になれ
ただ「コミュニティ・アーキテクト」という呼び方はどうかなあ。横文字や語感に、建築家でござい、といった感じを受ける。会長のイメージに近いのは「街医者」か。それにならって日本語でいえば、「街の建築家」でしょうか。
なんかまだこなれないので、この際、縮めて「街建(まちけん)」でいかがでしょう。
学生時代の「落研(おちけん)」を思い浮かべる人には、親しみやすさを伝えられます。地元豊橋出身の俳優を思い浮かべる人は「サンバ」の元気な踊りを連想するでしょう。若い人なら、来年のNHK大河ドラマ「平清盛」役に決まっている若手俳優を思いうかべるでしょう。小雪と結婚した俳優といってもいいですが、いずれにしても来年にかけていまが旬のかっこいい俳優です。
建築家の「街建」は、下手な落語をやったり、サンバを踊ったり、演技をしたりしません。その代わり、地元の町内会や自治会の集まりにもこまめに顔を出します。そこで防災や、街並みをより快適にする活動についてどんどん発言をしてほしい。神戸や東日本の震災から学んだ「使える教訓」を根っこにして。「次は東海」の危機感をばねにして。
そうした地味な活動が、東日本大震災を受けて、ここ名古屋での「社会と向き合う」活動の一歩になるのではないでしょうか。(了)