古木が宿す果実 おふくろの味
(文春文庫、9月10日発刊)
「剣術家・居眠り磐音」の連作として63冊目、「嫡男・空也」シリーズでは10冊目である。家の庭に大きな古木がまだ元気に繁っていて、こぶし大の果実が半年にひとつ実ってくれる。ぼくはそれをそっともぎとり、季節ごとの味の違いをいつくしみながら、皮ごと味わっている―。そんな趣の読書体験が続いている。
■二十歳の旅 広島から姫路、そして京へ
この空也シリーズは、空也が16歳で武者修行の旅に出た時から始まり、第7巻(9冊目)の前作で20歳になった。今回の二十歳の旅は、安芸・広島から姫路、そして京都へと流れていく。「朝に三千、夕に六千」もの素振りを日々、欠かさずに―。
大きな城下に入ると古宿に部屋をとり、風呂場で会った古老に「街いちばんの道場」を教えてもらう。翌朝にはその道場を訪ねて稽古を頼み込む。空也の剣の凄さはすぐ相手に伝わり、著名な江戸の剣術家の嫡男という出自と礼儀正しさも加わって尊敬に変わっていく―。ぼくにはおなじみ、もはや、おふくろの味だ。
今回のもっとも厳しい勝負はやはり最後に出てきた。場所は京都愛宕山の修験道の滝。相手は、空也が城下で演じた「殴られ屋」でいちど接した剣術家だが、名前は最後まで名乗らなかった。これが今回の題名になっている。
■もうひとりの武者修行 決着は次作に
なにより今回の影の主役は佐伯彦次郎だろう。前作『風に訊け』でも登場した剣術家。広島の名門道場の一番弟子だったが、武者修行に出て5年、空也に強いライバル心を抱いている。
だが彦次郎は、道場破りに金を賭けるやり方が悪評を呼び、父や伯父からは「勘当」され、道場主からは「破門」される。前作では彦次郎は志高き好漢に思えたので、予想外の展開だった。しかも空也とはまたも会わないまま、剣の勝負も含めて次回以降へと持ち越しになった。最後のヤマ場にとってあるのかもしれない。
■突っ込みどころ満載 でもうっとり
この磐音シリーズの感想記もすでに14本目だ。ここ数年は読むたびに、突っ込みどころ満載だなあとよく思う。磐音にしても空也にしても、剣も性格もまったく破綻がなく、完璧すぎる。磐音の名声は神格化され、まるであの水戸黄門の印籠みたいだ。会話に人物や固有名詞が出てくると、肩書やいわくの説明がきちんとした書き言葉になっているので、不自然なくどさを感じる。
しかし、もはや惚れてしまった弱みというやつなのだろう。なにせ、おふくろの味なのだ。欠点には気づいても、読んでいるうちにうっとりしている自分がいる。
こんなファン心理、いまなら「推し」というのだろうか。今作の帯には早くも、『九番勝負』は来年1月に発売する、とうたってある。うーん、こうなれば最後の『十番』までつきあうしかない。庭の古木はすでに80歳だそうだ。枯れないことを祈りながら待とう。