うん蓄の海 どこかに伏線 知的スリルの連続
(角川文庫、日本語版の初刊は2004年5月)
手元のぼくの雑記帖「爛熟は我に在り」によると、2006年に映画版『ダ・ヴィンチ・コード』を先に観ている。そしてこう記している。
- 原作の小説を読んでいないので、ついていけなんじゃないかなあと恐れていたら、その通りになってしまった。もともとキリスト教に詳しいか、原作を読み込んでいないと、やはり中身の理解は難しい。
- とにかく原作を読んでから、もう一度、映画を観てみよう。
あれから10年がたってしまった。本屋さんでこの文庫本に何度も目がいったが、上中下の3分冊なのにびびって、ついほかの本を選んできたからだ。
しかし1月9日の日経新聞でコラム「文化往来」を読んで、その気になった。そのコラムには、こんなことが書かれていた。
洋の東西を問わず英雄物語には「出立→イニシエーション(通過儀礼)→帰還」という共通の構造がある。神話学の古典『千の顔を持つ英雄』がそれを指摘していて、ジョージ・ルーカス監督が「この本がなければ『スターウォーズ』の物語を書けなかった」と述懐している。『マッドマックス』や『ダ・ビンチ・コード』を読み解く参考にもなるだろう。
実際に読んでみた原作は、予想以上にうん蓄のかたまりであった。映画ではトム・ハンクスが演じたラングドン教授が専門の象徴学だけではなく、記号論や絵画論、考古学、文学、建築論など文系知識のオンパレードである。
さらには登場してくる主要人物のほとんどに、別の顔や隠れた過去があったことが後でわかってくる。小説のどこにどんな伏線が張ってあるのか、わかったものではない。この知的スリルの水準の高さには恐れ入る。
観光名所になっている著名な建物や寺院もたくさん出てくるので、それはそれで楽しい。エンタテイメントの魅力もしっかりと含まれている。
それでも残る疑問もある。キリスト教を含む宗教学や信者たちの世界では、この本のどこまでが真実で、どこが論争中なのだろうか―。
次はもう一度、DVDで映画版を観てみよう。お楽しみはまだまだ続く。