8 街歩き 建築を味わう

講演「久屋大通を語ろう」

(2017年7月、名古屋都市問題研究会) 

■軽い前菜…大通の誕生と私見

 昭和20年、名古屋の都心部は米軍爆撃により一面焼け野原になり、名古屋城も消失した。添付の写真3枚はいずれも名タイ・アーカイブス委員会発行の写真集「昭和の名古屋」から、委員会の許可を得て転載した。

 1枚目の写真 は昭和35年、戦災復興のための100m道路の整備が整い始めたころ、若宮と久屋の交差点から北のテレビ塔を見た構図だ。

 次の写真は昭和36年、久屋と若宮の100m道路を東南側上空から移した空撮写真。「交差点」にポツンと残っているのが、中日新聞の前身、中部日本新聞の旧本社である。この写真撮影の直後に取り壊され、換地先のひとつが現中日ビルの敷地だった。

 3枚目の写真は昭和41年、換地先に竣工した中日ビル。真向いではバスターミナルが建設中だ。中日ビルとバスタの「ど真ん中ペア」は半世紀後の今も現役である。このふたつがどうなるかが栄のカギを握る。

 私はこのビルの完成から5年後の昭和46年に名古屋にきて建築学生になった。しかし7年後に希望を記者に変え、地元紙に入って新聞記者を32年つとめた。7年前から「社有不動活用担当」を任じられ、この中日ビルの建て替えがいまの最大使命になっている。

■苦い主菜…贅沢空間を生かせていない

(▲中日新聞社ヘリが空撮した久屋大通公園)

 生かせていない原因の第一は、久屋大通公園が東西道路で分断されていること。南北車線も広すぎる。名古屋が「クルマの街」になったためか、地下に巨大駐車場を設けたことも分断をもたらしている。

 原因の2番目は「発達しすぎた地下街」にあると思う。栄の地下街は、ある意味で「広大で安全で楽チンな年中ホコ天」だ。中でも地上広場との連携が悪い。というよりほとんどない。戦災復興シンボルであるTV塔へ地下から吸い上げる工夫もされなかった。

 原因の3番目は、ウィークデーは「広場」になっていないこと。ランチを食べるサラリーマンや、乳母車で散歩する母子は少ない。近くに市民がほとんど住んでないからでもあろう。札幌大通公園はイベントも多いが、生活に根付いているように見えた。明治初めにできて歴史が長く、周辺に住む市民が多いことも要因とみている。

■美味な主菜…やっと 動きが出始めた

 久屋の北エリアを手始めに、名古屋市に「公園経営」導入の動きがやっと出始めた。東西道路の一部封鎖とか、PFI方式のカフェ導入、モニュメント撤去などの動きがある。都市公園法の改正も追い風になっているのだろう。

(▲久屋の変遷を伝える新聞記事)

 噴水南側のバスターミナルは、市は今年度にオアシス周辺へ移転させる計画だ。その跡地は東京五輪が終わるまでイベント広場として暫定利用するといい、運営する民間会社公募を予定している。市はその暫定利用期間中に、バスタから南側のエリアの本格整備の計画を練る方針。市は先の議会で、南エリア最南端の「光の広場」に5000人収容のスポーツアリーナを新設する構想も明らかにしている。

 中日新聞社と中日ビル社は昨年9月、中日ビル建て替えの方針を発表した。2020年代半ばの完成を目指し計画を煮詰めている段階だが、バスターミナルを含む南エリアがどうなるかは新中日ビルにとって極めて重要なので、動きに大きな関心を持っている。

 ■デザート…もっと議論を 利用を

 やはり久屋大通り沿いに名古屋事務所がある日建設計は、6月末にテレビ塔で開いたフォーラムで、久屋大通りの生かし方についてさまざまなアイデアを披露した。うち3例を本日の参考資料につけた。

 名駅がどう変化していくかも関心事だ。私の持論は「かつて4M(百貨店4つ)、いま3M(MIRAI、MRJ、MAGLEV)」。名駅の3Mは、NIMRAのMさんも指摘されていた通りで、名駅は「産」に馬力がある。それに比べて栄は、真ん中に巨大な久屋大通りがあるため、よくも悪くも、今も昔も、「市(官)」主導が宿命なのかもしれない。

 名駅には2027年のリニア開通後、駅の東側と西側に細長い「駅上広場」ができる。きょうのテーマ、100m道路誕生に匹敵する出来事になる可能性がある。特に駅東広場は、摩天楼のはざまにできる細長広場になる。ニューヨークのタイムズスクエアに近いかも。久屋は道路指定を外すくらいの気概がないと太刀打ちできないかもしれない。

一方、名古屋城の木造復元は市民の意見が割れているが、もし予定通り進めば、名古屋の文化軸は東へ振れる。その軸は名古屋城から南の久屋大通りと栄を経て、大須、熱田へと連なる。名古屋の街の変化は、そんな大きな時間軸と文化軸でも論じていきたい。 

 (注) 名古屋の異業種交流会である「名古屋国際都市問題研究会」(略称NIMRA)はぼくも会員になっている。2017年7月の例会は講師となり話題提供した。例会の概要はNIMRAのホームページにも公開されている。上記はその際の手元原稿と資料の一部である。               

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