6 報道 新聞の先は

下山進『2050年のメディア』

切れが良すぎて スイングすらできない

 (文芸春秋、2019年10月)

 2020年1月の社内会合で、ある幹部があいさつでこの本に言及し、中の一節を紹介した。記憶によれば以下のような個所だった。

  • ヤフーが新聞社に払っている原稿料(出稿料)は、Yに対してはMやSの3-4倍、地方紙の10倍である。
  • ヤフー幹部のひとこと「Yや地方紙はもう(ヤフーへのニュース提供から)抜けられない」

 またその週の中日夕刊は文化欄で筆者へのインタビューを掲載した。恥ずかしながらぼくはこの本を読んでいなかった。すぐ栄地下街の本屋さんへ行ったが「在庫なし」。翌週に訪ねたら7冊も積んであった。

 読み終わってみて思う。この本を読むことは、ぼくの新聞社人生の終盤と照らし合わせながら、組織の中で経営に取り組んできたことの意味を振り返り、総括していく時間だった。

 ぼくが新聞記事のデジタル化にかかわったのは、編集局次長だった2009年から2010年にかけての「医療サイト創設」が最初で最後だった。新規事業の一環として横断チームのまとめ役だった。2008年北京五輪の取材団長を終えた後、日常の紙面づくりを除くと編集で最後の仕事になった。

 詳しい経過は省くが、チームとして組み立てた構図は、サイトだけでなく「つなごう医療」面も同時新設するスキームだった。医療面に掲載した記事をサイトに張りつけていくことでサイトのコンテンツを継続的に増やし、アクセス数も伸ばしていこう、という作戦だった。

 スタートしてすぐにぼくは編集局を去った。いま振り返ると、結果的にはできなかったかもしれないが、ニュースを売るとか、サイト利用者への課金を本格的に検討してみるべきだったかもしれない。しかしぼくはその後、社有の土地・建物の管理や有効活用部門へと「社内転職」し、新聞のデジタル化やメディアに直接かかわる機会はなかった。10年前のことである。

 もしあのまま10年、新聞のネット利用やメディア展開にかかわっていたとしても、どこまでやれただろうか。本腰を入れてネットに出ていく決断がぼくにできたろうか。この本にも出てくるN紙の本格姿勢や、A紙の急追を見つめながら、いろんな事情で真正面から攻めていけない悲哀やじれったさの中でひとりもんもんとしていたように思う。

 そんな自分は横に置きながらこの本を読み進めていくと、N紙やY紙やA紙やK通信の同業者やヤフーの人たちの苦闘する様が身に沁み、「仲間」のように思えてくる。どの社のどんな決定も、最後の決断の場面では、そのプロジェクトにかかわる個人の資質や熱量、センス、周囲との関係などに収れんし、それらに大きく左右されていくことがよくわかる。

 それは筆者の下山氏がどの章においても個人を中心にすえ、そのひとの目線からストーリー展開している手法が大きく関係している。筆者がもとは雑誌記者で、記事を書く際には徹底的にディテールにこだわる習性が生きているように思う。番外編のような「清武の乱」や日経鶴田事件も、あらためて全体像を提示してもらった感があって、業界人として別の面白さもあった。

 おそらく、取材を受けた人の多くが本を読んでみて「こんなニュアンスではない」とか「真実は書かれていないところにある」などと思っているだろう。取材や記事はつねにそういう面を伴うと経験上わかった上なのだろう、筆者はあえて、各章の末尾に取材協力者の実名を掲げて「手の内」もさらけ出している。

 このストレート勝負、まいりました。筆者の球の切れがよすぎて、ぼくにはスイングすらできない。

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