9 名古屋 地元を旅する

円空の自刻像

恍惚の微笑 円熟の境地  芭蕉と遭遇?

 (関市円空館、2003年7月開館)

<▲『善財童子』=絵葉書から>

  岐阜県関市にある円空館を訪ねたら「自刻像」とされる仏像に出会い、魅せられた。丸刈りの修行僧が目を閉じて合掌し恍惚の微笑を浮かべている。衣紋の荒々しい彫り跡も円空らしい。江戸時代の前期で当時55歳、作仏と遊行が円熟の境地にある。同時代の松尾芭蕉と旅先で遭遇していたかもしれない。

■柔和な顔 荒々しい衣紋

 この仏像には「善財童子」(ぜんざいどうじ)という名前がつけられていた。説明書によると「悟りを得た、菩薩修行の理想者」。彫られたのは1687年、円空が55歳の時だ。

 顔は少し上を向きあごを突き出している。目は軽く閉じ、眉は細長く、鼻は低め。口元にはかすかな笑みと充足感が見てとれる。耳たぶは大きくふくよか。丸刈りの頭には何もかぶっていない。

 この館には30体ほど展示されていたが、これほど人間味ある安堵の表情を浮かべた像はほかにない。円空は若くして出家し諸国で仏像を彫り続けていた。説明文に「円空そのものを想像させ『自刻像』ともいわれる」とある。

 もっとよく見ると肩から下は刀の彫りの勢いがそのまま残されている。木目にそって衣紋が鋭く刻み込まれ、襞の溝は合掌する指先へとつながっている。顔の柔和さと比べなんと荒々しいことか。荒々しいけどリズミカルだ。ぼくが知っている円空仏の魅力が凝縮されていた。

■顔の丸みに「円」 無心の祈りに「空」

<▲入場券>

 彫刻家が自分をモデルにして彫るのを「自刻」と呼ぶことを初めて知った。画家で言えば「自画」になる。1か月前に一宮の三岸節子美術館で『自画像展』を観ている。才能に恵まれた画家が自らを描けば、それが若い時であっても、その人が持つ特質がにじみ出ることを知って面白かった。

 江戸前期に「自刻」の概念はなかったとしても、円空が『善財童子』に自らの姿を投影したと想像するのは不自然ではないだろう。

 それにこの自刻像は、名前の「円」と「空」の語感ともぴったりではないか。丸みを帯びた顔や頬は「円」のイメージに沿っている。邪念を拭い去って恍惚の表情で合掌する姿は「空」の世界といえないだろうか。

■江戸前期 芭蕉と重なる旅

 「善財童子」の反対側にあった大年表も面白かった。円空は1932年に美濃で生まれ、出家すると東日本を行脚して、諸国で仏像を彫って歩いた。檜や杉の1本から短時間で彫り出した作品が多く、生涯に12万体も彫った。うち5000体強の現存が確認されているそうだ。

<▲研究書もたくさん=円空館ライブラリーで>

 へえーっと思ったのは一番下の欄「関連出来事」に松尾芭蕉がさらりと2回出てきたことだ。円空が12歳だった1644年に芭蕉は生まれていた。円空が関市の弥勒寺を中興した1689年には芭蕉は「奥の細道」の旅へと出発していた。

 となると想像は膨らむ。円空は北海道から近畿を巡った。芭蕉は東北から北陸を経て大垣まで旅した。どこかで会っていたのでないか。もしそうなら「遊行の仏師」と「旅の俳諧師」はどんな話をしただろうか。頭で勝手に描いた出会いシーンの円空の顔はもちろん「恍惚の微笑」だった。

 家に帰ってネット検索したら同じ想像をした人は何人もいた。作家の立松和平は『芭蕉の旅、円空の旅』という本まで書いていた。ふたりの旅の本質と違いを考察し、出会った可能性にも触れているらしい。

<▲円空館への歩道>

■岐阜の円空仏 16もの施設に

 訪れた関市円空館は長良川沿いの弥勒寺跡にあった。広い駐車場から竹林を300mほど歩いた先にひっそりと建っていた。この歩道は気分がいい。

<▲アプローチの左右に列柱>

 玄関へ続く歩道の両脇にコンクリートの列柱が並んでいた。展示棟を池が囲んでいて、小さな中庭を囲むように展示室が配置されている。建築としてもまずまずだと感じた。

 岐阜県観光組合のホームページ「ぎふの旅ガイド」には、円空仏を展示する施設が県内だけで18も紹介されている。30体以上の展示館も関、高山、下呂、郡上の4市に5施設ある。ぼくが訪れたのは関市円空館だけだが、それぞれの写真を見ると『善財童子』がもっとも表情が豊かで円空らしいと感じる。

 名古屋にも荒子観音をはじめ円空仏はたくさんある。名古屋に半世紀も住みながら荒子はまだ訪ねたことがない。「木端仏」(こっぱぶつ)や千面菩薩を観てみたい。毎月第2土曜日の午後に開帳され、見せていただけるそうだ。楽しみがまたひとつ増えた。

■古民家宿への旅の途中に

 今回の関市訪問は4月1日、板取川の最深部にある古民家旅館「すぎ嶋」に妻と1泊するのが目的だった。途中の観光先を探したところ、候補として「円空」「うなぎ」「モネの池」「寺尾の千本桜」「根尾の淡墨桜」「五郎丸ポーズの仏像」「刃物ミュージアム」の7つが残った。

 この1泊2日の小旅行では最初の5つを観ることができた。サクラが満開だったから淡墨桜と千本桜もすばらしかったけれど、文章にまとめたいと強く触発されたのは、いちばん最初に尋ねた円空館で出会った「自刻像」だった。

(4月12日追記) 荒子観音の「千面菩薩」

 名古屋市中川区の荒子観音は毎月の第2土曜日午後に、寺に残る円空仏を一般公開している。関市を訪れた後の最初の第2土曜日となった4月10日にさっそく訪れ見せていただいた。

<▲千面菩薩の観音様。高さ14~27cm = 冊子『円空仏 荒子観音寺』から>

 荒子観音には円空仏1250体がある。そのうち千体を越える「千面菩薩」にぼくの目は吸い寄せられた。そのほとんどがとても小さいし、数もとんでもなく多い。製作から発見までのストーリーにも興奮した。口頭説明や寺で販売されていた冊子『円空仏 荒子観音寺』によるとこんな経過をたどってきた。

<▲荒子観音山門。仁王像が睨んでいる>
  • 仁王像の残存切れ端に「魂」  円空は1676(延宝4)年に荒子観音に滞在し高さ3mの仁王像1対を彫った。檜の大木を池に浮かべながらノミで削り出していった。その過程で出る木っ端くずも捨てずにとっておき、後でひとつひとつに菩薩の目や鼻を刻んだ。円空はそれらを集めて旅行トランク大の厨子(木箱)にしまい、箱の表に「南無大悲 千面菩薩」と書いた。
  • 296年後に「発見」 1972(昭和47)年、当時の住職が多宝塔の中を掃除していて厨子を発見した。寺の記録『浄海雑記』には千面菩薩を収めた厨子の存在が書かれており、296年後に確認されたことになる。
  • 数は1024、最少は高さ3cm 調べてみると数は1024もあった。高さはいちばん大きいのが46.4cm。ほとんどは5から15cmぐらい。もっとも小さい阿弥陀はわずか2.8cmにすぎない。小指の半分くらいだ。
(▲看板)

 仁王像以外の円空がわ保管されているのは本坊の和室だった。午後1時から1時間ほどの見学者はぼくと妻を含めて10人ほど。展示室は照明が落としてあり、各自が小さな懐中電灯で照らしながらすく近くから観ることができた。写真撮影は禁止だった。

 千面菩薩をよく見ると、一体一体に目と鼻と口が刻み込まれている。表情は似てはいるが、木っ端の形も違うので、受ける印象は微妙に違う。笑みを浮かべているのもあれば、悟り瞑想を感じさせるのもある。時代も場所も大きさも背景も全く異なるけれど、中国・西安で観た兵馬俑をぼくは思い浮かべた。

<▲釈迦羅たち= 冊子『円空仏 荒子観音寺』から>

 円空はどのくらいのスピードで仕上げていったのだろう。単純計算なら一体1分として計17時間、3分なら51時間かかる。1日8時間の作業なら2日から1週間だ。それにしてもすさまじい集中持続力である。もっとも円空の作仏は、芸術家というより、修行僧の宗教行為の意味合いの方が大きかっただっただろうから、現代感覚で推量しても何の意味もないのだろう。

 冊子『円空仏 荒子観音寺』で写真撮影と監修をされた長谷川公茂氏は、巻頭文で次のように記されている。納得の文章だ。

  円空に仏像制作のための師匠はいなかった。(中略) もし彼がどこかの仏像制作の工房に入っていら、とても今日我々が驚嘆するような円空仏は生まれなかった。(中略) 誰からの干渉も指導も受けていないからこそ、自分で創意工夫し、独自性豊かな作品を作り得たのである。
 円空の彫刻は他からの干渉のすべてを断って、ただ一つの気稟(団野注=きひん、生まれつき備わる気質)と、信念の表れとして、自由奔放、自在にノミの力を発揮した造形である。ここに美の神髄が潜むのである。

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