3 随筆 個性に触れる

太田和彦『70歳、これからは湯豆腐―私の方丈記』

酒場探訪作家 ひとり時間の勧め

(亜紀書房、2020年12月)

 なんとも古色ゆかしい題名だ。酒場探訪で著名な75歳作家の気ままな随筆集である。コロナ禍で巣ごもり執筆になったため「方丈記」と名づけ、古稀をむかえる男たちに「家族でやってる古い居酒屋にひとりすわり、自分を肯定できる時間を持て」と応援歌をつづっている。日本一の居酒屋は名古屋・伏見の「大甚本店」だと断言しているのが誇らしい。

コロナ禍ゆえの「方丈記」

(▲筆者のイラスト)

 筆者の名はよく知っていたけれど、本を読むのはこれが初めてだ。ぼくも来年は「70歳」。「湯豆腐」「方丈記」との妙な取り合わせに誘われて読んだ。

 やわらかな調子の随筆が84本おさめられている。亜紀書房のウェブマガジンに2020年5月から10月まで連載した文章を6部に再構成した。連載時はコロナ禍のため、家や仕事場にこもって書くしかなく、身辺雑記が増えた。それが本にまとめる際に「方丈記」という題名につながった。

 本家の『方丈記』は鎌倉時代の歌人、鴨長明が山里の庵に隠棲して記した随筆だ。有名な書き出し「ゆく河の流れは絶えずして…」は古典文学にうといぼくでも覚えている。いまも「~方丈記」といった形で随筆タイトルに流用されるのは、日本人ならではの厭世感と達観がにじみ出ているからだろう。

太田流「令和版 方丈の1日」

(▲筆者のイラスト)

 なんといってもコロナ禍での74歳の過ごし方が面白い。30数年前に独立して事務所を構えた時から変わらないという。太田流の「令和版 方丈の1日」を本のあちこちから拾い集めて時系列にまとめてみると—。

 実際の文章はもっと具体的だ。視覚的でリアリティに満ちている。日常生活での細部へのこだわりや気配りは筆者の最大の持ち味であり、もしかしたら生命線なのかもしれない。

「湯豆腐」は奥深く飽きない

 70歳になったらなぜ湯豆腐なのか。その答えはまえがきにある。「豆腐はそれ自体でうまい」とした上で下記のように書く。

 筆者は全国の酒場をめぐり、その土地その季節でいちばんおいしいものを肴にうまい酒を飲んできた。そして膨大な数の訪問記を書いてきた。その蓄積がにじみ出ている。

 脇役だが最後はいろんな味を吸っていちばんおいしいものになる。やわらかく純白の姿は清浄に生まれてきたはずのわが身だ。それが人生のいろいろを吸収し、ほのかに色もついて、豊かな味になっている。
 その豆腐が主役となるのが「湯豆腐」だ。昆布を敷いた鍋に豆腐を沈めて、温めるだけ。単純なだけに味わいは奥深く、飽きない。ながい人生にたどりついたのはこれだったか。

「ひとり居酒屋」で自分肯定

  居酒屋の愉しみ方を書いたページの書き出しと締めくくりはこうだ。

 組織をリタイアしてひとりになった中高年が自分を再生させるには、居酒屋へ行くのが一番と書いてきた。
 いい歳をした男一匹、ひとりで居酒屋ぐらい入れなくてどうする。

 リタイアした男がひとりで居酒屋に入り酒を飲み出せば当然、いろんなことの過去や現在、ときには未来が頭をよぎる。会社や仕事のこと、妻や子どものこと、老後の介護や健康のこと…。筆者はこう言い切る。

 「不満をいえばきりがない。もう文句はない。これでよかったんだ」と自分を肯定する気持ちが翻然とわいてくる。「自分を肯定する」。これが酒の最大の効用だ。

 自分を肯定するー。リタイア男にとってこれが一番難しい。ぼくにもいま、よくわかる。

「居酒屋探訪」の先駆け

  著者は1946年の生まれ、昨年の連載時は74歳だった。資生堂宣伝部のディレクターから43歳でデザイナーとして独立している。趣味の酒場めぐりをまとめた『居酒屋大全』を1990年に出版してこの道の大家となり、テレビにも活躍の場を広げ居酒屋ブームの先駆けともなった。

 『居酒屋大全』を出した1990年の日本はまだ、バブル景気のど真ん中だった。お酒といえば高級ワインやカクテルなどの西欧酒に人気が集まっていて、居酒屋や日本酒はもちろん愛好者はいたものの、時代遅れ感があった。

 居酒屋に関心が向くのはバブル崩壊後だ。筆者は1999年にテレビ旅チャンネルで『ニッポン居酒屋紀行』を始め居酒屋番組の先駆けともなった。この番組に関してこんなくだりがある。

 一部で評判になったらしく、1年後だったかプロデューサーから「他局で真似したいと言ってきたが、いいですか」と問い合わせがあり「どうぞ」と返答。間もなくはじまったそれはまったく同じつくりで驚いた。

 この他局の番組名は本には書かれていない。ぼくは『吉田類の酒場放浪記』だと推測している。

吉田類氏も地方出身の団塊

 吉田類氏の番組はwikipediaによれば2003年9月にBS-TBSで始まっている。太田氏の旅チャンネルは観たことがなかったので、この本を読むまでぼくはBS-TBS番組が居酒屋番組の先駆けと思ってきた。

 どちらが先駆けか本家かはともかく、ふたりはよく似ている。ともに団塊世代で地方出身だ。

     太田和彦氏     吉田類氏
生年   1946年       1949年
出身   長野県       高知県
職業   デザイナー     イラストライター
酒場番組 1999年~      2003年~
趣味   俳句        俳句
     ロッククライミング 登山

 さらにもとの職業はともに作家やジャーナリストではない。デザインとイラストは「言葉」より「感性」を大事にする領域だろう。居酒屋の愉しさとか人のやさしさを感じ取り、第三者に伝える作業は、デザインや絵を描く感性と相性がよかったのではないだろうか。

日本一はなんと「大甚本店」!

 この本の真ん中あたりまできて、思わず、えーっとのけぞり、嬉しくなるページに出くわした。128ページはずばり、この一行で始まる。

 ながいあいだ各地の居酒屋を訪ねて結論が出た。日本一の居酒屋は名古屋の「大甚本店」だ。

 もともと地元では長く「超」がつく有名店だった。ぼくも現役時は仕事帰りに地下鉄伏見駅で途中下車し、ひとりでお邪魔したことが何度もある。その魅力はよくわかっているつもりだったけれど、酒場探訪のプロの筆の「過不足のなさ」にうなった。

 ここは注文はとらず、客は大机にぎっしり並ぶ小鉢から好きなものを自分で取って自席に置く。その小鉢は(中略)およそ考えつくあらゆる季節の肴が並び、人気は穴子や鯛の子などの煮物。なくなると湯気をあげて追加され…。
 赤レンガ二連大窯の湯にはつねに盃が温まり、徳利が浸って、注文すれば湯から上げて十秒で届く。樽香をたたえた酒の味は比類がなく、ゆるやかに何杯も何杯も飲めるのはこれぞ晩酌の酒…。
 カウンターで主人相手にちびちびではなく、上座も下座もなく、祭の寄合酒のように好きずきに酒を飲んでいるのは感動的だ。

・熟成した酔眼 

 この本での「大甚」の紹介は見開き2ページだけで写真もない。しかし店内の様子やテーブルの配置から、酒や肴の出し方、運営する家族の人柄も1000字で書きつくされている。ほかの著作で何度か書いてきたことだからかもしれないけれど、通常のガイド本にはない「熟成した酔眼」を感じる。

 名古屋人のひとりとして、とても誇らしい。店は主人だけでは作れない。あまたの地元客もあの空間と磁場をつくってきた。ああまた、あのざわめきに身を沈め「ひとり時間」を味わいたくなってきた。

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