1 ゴルフ 白球と戯れる

至福の笠間・大利根へ…「井上誠一」巡礼記1

妖しい曲線 ときめく松林 友ありて

(茨城県、2022年4月19・20日)

 茨城県まで遠出して名匠・井上誠一が設計した2コースを味わってきた。遺作となったスターツ笠間ゴルフ倶楽部では、グリーンまわりの妖しい曲線が「ここへ打ってきて」と誘ってきた。中期の名作である大利根カントリークラブでは、松林のすき間から見えるピンフラッグのゆらぎに心ときめいた。一緒に回ってくれたのは高校の同級生で千葉に住むT君(69)。51年ぶりの再会は「友ありて 遠方へ向かう」至福の旅になった。

「笠間」の絵 眼の快楽

 笠間の5番PAR3、ティーインググランドに立ったとき息をのんだ。絵のような景色に呆然としていたら、キャディーさんが急に饒舌になった。

  わたし、このホールがいちばん好きなんです。見てください、ふたつのグリーンの後ろの小山がゆるーうく、うねってますでしょ。あのライン、奥の山並みとそろってますよね。井上さん、曲線が平行に見えるよう設計されたと聞いています。

 手前の池には山並みの新緑がうっすらと写りこんでいる。左と右にかけられた橋もわずかに湾曲している。バンカーの後ろの芝山はこんもりと盛り上げてあり、その左右はなだらかに低くしてあるので「峠」に見える。

 どの曲線もなまめかしくて、流れるようだ。6つある大きなバンカーは形が微妙に違っているけれど、グリーンをはさんで引っ張りあっているようにみえる。

 弛緩と緊張、緑と白、絶妙なる均衡…。まさに「眼の快楽」だった。

日本庭園の借景 足立からも学んだ?

 後方にある山並みと一体になったこの構図は、典型的な借景のひとつだろう。井上誠一はこの手法を日本庭園から学んだという。

(▲足立美術館の庭園=2019年8月撮影)

 ぼくは2019年8月に妻と訪れた足立美術館((島根県安来市)の著名な庭園を思い出していた。

 右の写真はそのときの1枚だ。白砂や青松や芝山の絶妙な配置は、後ろの山が借景になるように工夫され、すべての曲線を山並みの稜線と融合させていた。

 足立美術館が開館したのは1970年である。笠間ゴルフ倶楽部の開場は1985年だから、設計者の井上誠一だけでなく、グリーンやバンカーを現場で造り込む職人たちも、この足立美術館の庭を観ていたかもしれない。そんな想像も楽しい。

 自分が打つ番になってぼくはゴルファー目線に戻り、5番ユーティリティを手に151ヤード先のピンを凝視すると、ゴルフの神様から声が聞こえた。さあ、どの曲線もみーんな受け入れて、ど真ん中へ、高ーい球を打ってごらんー。

いたるところ「一幅の絵」

 この日はすばらしい天気で、青空にはところどころに白雲が漂っていた。どのホールでも、どちらを見ても、「一幅の絵」の連続だった。

 ぼくはプレーの合間にスマホで写真を撮りながら、前の組、もっともっとゆっくりプレーしてくれないかなあ、と願っていた。こんなことめったに、ない。

ハウスも巨匠が設計 村野藤吾「かぶいた」意匠

 もうひとつ、どうしても笠間を訪れたいと思ったのが、クラブハウスの設計が、こちらは建築界の名匠、村野藤吾(1891-84)だったことだ。

 その日の早朝、ゴルフ場に着いて正面から見た外観は、ぼくの記憶にある「村野藤吾」を裏切らなかった。寄せ棟に近い大屋根がつくりだす「端正さ」と、ちょこんと乗せられた6本の鰹木(かつおぎ)の「かぶいた意匠」。この振幅もこの人らしい。

 内部ではふたつの階段が目を引いた。ひとつは優美な螺旋式でコースの曲線美を予感させた。もうひとつは対角側にあり、幅広の踊り場が大きくせり出し素敵だった。

(▲村野藤吾の紹介パネル)

 このクラブハウスの開館は1985年。村野が93歳で死去してから2年後だ。

 実務の多くは事務所スタッフが担ったかもしれないが、スケッチまでは村野が関与していたと思う。神社建築のアイテム、鰹木をあえて屋根に載せる発想は村野らしい気がするからだ。

林間の「大利根」 松林に響く歓声と衝突音

 井上ツアーの2日目に訪れた大利根は、高さ10mを越える豊かな松林が平坦地に広がっていた。東と西の2コース36ホールが林を縫うように走っている。ぼくたちは西コースをラウンドしたが、高低差はほとんど感じなかった。

 左右に松林があるので、ボールがフェアウェイからそれると、ピン方向に松の幹や枝があり、一気に難しくなる。ましてや林の中に打ち込むと、すぐ近くのフェアウェイへ出すしか手がないことが多い。

 林に並んでいる松は下半分の枝がていねいに切り落としてある。ボールがフェアウェイからそれても、狙うべきピンは幹と幹の間からしっかり見える。ピンフラッグが風に揺れていたりすると「狙ってみたら?」という悪魔のささやきが聞こえてくる。

 するとぼくは、少しでもチャンスがあるならと考え始める。樹の上をいく「高い球」を打つか、幹と幹の間を抜いていく「低い球」でいくか―。悪魔のささやきとこの悩み、何度も愉しむことができた。

 こうした林間コースでは、隣やその向こうのホールから、「ナイスオン」といった歓声とともに、ボールが木に当たってしまった「カーン」という”絶望音”も聴こえてくる。ゴルフ好きが愉しみを共有している感じがして、顔がゆるんできた。

 2024年の日本女子オープンはここで開催される。それに備えてあちこちでコースの手直しが進んでいた。バンカーの位置を変えたり、フェアウェイの松を伐採したりしていた。名門コースもこうして時代とともに変わっていくのだろう。

友あり遠方へ向かう 51年ぶり再会

 一緒にラウンドしてくれたT君(69)は、京都・東舞鶴高校の同級生で、いまは千葉県に住んでいる。ともに陸上部に属していたけれど、卒業後に会ったのは同窓会の一度のみ。あとは年賀状のやり取りだけが続いていた。

 そのT君も大のゴルフ好きで、このサイト『晴球雨読』を見てくれて「いちど一緒にプレーしませんか」とのメールをもらったのが3か月前だった。ぼくが「千葉や茨城には井上誠一コースがたくさんあるから、ぜひそちらで」と返事して計画が動きだした。

 問題はスタート予約だった。笠間はパブリックになっていたのでネット予約できた。しかし大利根は会員しか予約できず、しかも同伴プレーもお願いする必要があった。T君は地元の仲間をたどって会員を紹介してもらい、今回のプレーが実現した。

 T君とじっくり話をしたのは1971年の卒業以来51年ぶりだった。当時の同級生や先生たちと部活の裏話、卒業後の道のり、家族のこと…。2夜の会食は、話題が尽きることはなかった。昼間はあこがれの井上コースを堪能し、夜は高校時代の思い出にどっぷり…。「論語」の有名な一節が浮かぶ。

  朋(とも)有(あ)り 遠方より来(きた)る 亦(ま)た楽しからずや

  これをぼくから見た形で、現代風に書き直すと―

 古稀の友ありて 遠方へ向かう 球戯の旅の 楽しからずや

井上誠一の設計は全国に38コース

(▲写真集『大地の意匠』)

 ぼくが井上誠一の世界に魅せられたのは、山田兼道氏の写真集『大地の意匠』を手に入れてからだ。

 この本によると、井上誠一(1908-1981)は生涯に38のコースを設計した。北海道から鹿児島まで全国17都道府県にまたがる。

 今回の旅までにぼくが体験していたのは愛知県と三重県にある5つのコースだけだった。今回の2コースを加え開場順に並べると次のようになる。

愛知カンツリー俱楽部  (愛知県名古屋市、1954)
桑名カントリー俱楽部  (三重県桑名市、 1960)
大利根カントリークラブ (茨城県岩井市、 1960)
春日井カントリークラブ (愛知県春日井市、1964)
伊勢カントリークラブ  (三重県伊勢市、 1965)
南山カントリークラブ  (愛知県豊田市、 1975)
スターツ笠間ゴルフ倶楽部(茨城県笠間市、 1985)

(▲井上誠一のパネル=笠間で)

 井上の処女作、霞が関が1932年の開場だから、1960年の大利根は「中期の名作」といえる。笠間は井上死去から4年後の1985年に開業しており「遺作」とされている。つまり笠間は、井上誠一、村野藤吾というふたりの名匠の最後の「作品」でもあった。

 ぼくが体験していないコースが、まだ31もある。お楽しみは、これからだ。

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