読み継いで62冊目 心境は「見守る父」
(文春文庫、2022年5月10日発刊)
剣術家・坂崎磐音をめぐる連作は62冊目になった。もう十分と思いつつ新作が出ると読み継がずにいられない。嫡男・空也の武者修行は9冊目で長州藩の萩に入った。どんな内紛があり、だれと出会い、いかなる剣客と死闘を演じるのか―。ぼくの気持ちはもはや、江戸で見守る父・磐音になりきってしまっている。
舞台は長州 「倒幕へ」の50年前
坂崎磐音が主人公の『居眠り磐音』は2012年11月に読み始め、スピンオフを含め53冊を読み通した。『空也10番勝負』も6巻8冊を読み、このサイトに公開している書評も8本目になる。
その空也は16歳で武者修行の旅に出て、新作でやっと20歳になった。前作の舞台、長崎を船で出て、下船するのは長州藩の萩だ。
時は寛政11年、西暦1799年。萩の松下村(しょうかそん)塾で学んだ藩士たちが倒幕に向けて活動を始めるのは1850年ごろだから、新刊の舞台はその半世紀ほど前になる。
空也は当然のごとく、街いちばんの道場をまず訪れる。いつものように尋常ならざる腕前の一端を披露して剣士たちを驚かせる。そのあと門弟のひとりに萩の城下を案内してもらうのだが、この「街歩き」場面がいい。いままでにない穏やかさだ。
折々に江戸へ文 託す思い にじむ成長
これまでも空也は、ここが節目と感じると、紙と硯と筆を借り、江戸にいる両親や恋人へ文をしたためる。書き終えると、その場の主人に飛脚代とともに渡して、大事な勝負へ向かっていく。
江戸にその文が届くと、父の磐音は家族や親類だけでなく道場仲間や友人など20人近くを集めて文を読む。文面にみなが一喜一憂する場面は、毎回おなじみだ。
電話もない。もちろんネットもない。そんな江戸時代の人と人のつながり…。毛筆に託された心情と気持ちの揺れ…。なんと豊かなことか。
空也も家族に文を書くことで、それまでの自らの修行を振り返り、気持ちの整理をする。それが武芸者の度量を大きく深くしていく。
現代では味わいようがない手触りへのノスタルジア…。ぼくお気に入りの成長物語だ。
風に訊け きわどい勝負 澄んだ心
萩で出会ったいちばんの強敵との勝負は最後に待っていた。今回の題名にもなっている「風に訊け」もそこで出てくる。生きるか死ぬかの分かれ目でこそ、澄んだ心で最善の剣を繰り出したい―。そのための呪文のようだ。
空也は風に訊いていた。
(どうすべきか)
四方之助の刃が朝の光を浴びて煌(きら)めいた。
その瞬間、空也の五体が沈みこみ、次の刹那、風が舞う虚空に高々と飛び上がっていた。
四方之助の刃が方向を転じて、空也の両足を切断しようとしたと同時に、盛光が頂から風に乗って地表に落ちてきた。
こうした抽象的な描写とざっくりとした言葉づかいは、すっかりぼくの肌身にしみついている。どんなきわどい勝負になっても安心して読んでいける。あの『男はつらいよ』の寅さんが、どんな大恋愛や大喧嘩を始めても、安心して観ていられるように…。
もうひとり修行者 次巻で対決?
これまでの巻とは大きく違うことがひとつある。この7巻には、生真面目な武者修行中の若者がもうひとり、何度も出てくるのだ。
浅野彦次郎。安芸広島藩の生まれで、19歳から修行に出て5年になる。下男の老人と鷹を連れている。江戸で磐音の道場を訪ねたとき、空也という年下の若者がやはり武者修行中と知って驚き、強い興味をいだいている。
この彦次郎、新刊の冒頭から空也より先に登場する。しかも空也と同じように、志が高い好漢として描かれていく。しかし、萩に近い場所を旅しているものの、空也とは接触しないまま終わってしまった。
空也ファンは35万人? 9月発売を予告
今作の帯には「累計280万部の大人気時代小説」と書いてある。6番勝負まで8冊が刊行されているから、熱心なファンがぼくをいれて35万人もいるらしい。
帯の裏には次作について「9月1日発売」と予告してある。どうやら次作では空也と彦次郎が出会いそうだ。どんな勝負が待っているのだろう。結末は死か友情か―。
筆者はことし2月に80歳になった。35万人の熱に応え、退路を断って書き続ける覚悟にあらためて脱帽だ。来月に70歳になるぼくも10番目の勝負までつきあうしかない。