1 ゴルフ 白球と戯れる

愛知Cの遊び心…巡礼「井上誠一」2

尾張藩の狩場 黒松と尾根の誘惑 

 名古屋市の南東部、牧野ケ池緑地にある愛知カンツリー俱楽部は、江戸時代は尾張徳川藩の御狩場だった丘陵を生かし、名匠・井上誠一がコース設計して1954(昭和29)年に開場した。6月の公式試合予選でプレーした時もゆるやかな尾根の連なりと黒松が、遊び心に品格を忍ばせながら、挑戦心をくすぐってきた。4月の大利根・笠間に続く「井上誠一」巡礼の第2弾として、写真と言葉でその魅力に迫った。

(▲時を刻む黒松たちと練習グリーン)

中部の戦後初コース 日本オープン3度

 戦前の名古屋にはゴルフ場は1929(昭和4)年開場の名古屋ゴルフ俱楽部(和合)しかなかった。その和合も終戦後しばらくは米軍に接収された。

 愛知カンツリーHPによると、敗戦から5年たつと愛知県や財界に「名古屋が国際都市になるには新しいゴルフ場を」との機運が芽生え、1954(昭和29)年に開場した。和合から5キロの県有地、牧野ケ池緑地が「緑の緩衝地帯の残置」も兼ねて選ばれた。中部では戦後初のコースである。

(▲18番グリーンから9番グリーンを見る)

 底地は県所有のまま、施設整備や運営は社団法人が担った。格式が一番高い試合の日本オープンと日本アマを3回ずつ開いている。中日クラウンズの和合、東海クラシックの三好を「民間の名門」とすれば、愛知は「官の名門」だろう。

理想の地形 複雑な起伏 自然な分離

 コース設計を依頼された井上誠一は40代半ばの働き盛りだった。HPによれば、やはり県の所有地、森林公園も候補だったが、井上は牧野ケ池を選んだ理由を回想記にこう書いた。

 ここの最大の長所は、自然地形がゴルフコース用地として理想的であることでした。複雑な起伏があるにもかかわらず、いずれも1ホールの必要にして十分な幅を持った平坦地尾根によって隔てられています。従って各ホールはそれ自体で、自然のままセパレートされています。こんな素晴らしい用地は日本中を探しても得難いと思いました。

(25周年記念誌への寄稿、HPから)

 昭和20年代はまだ重機をふんだんには使えなかった。予算も限られ、尾根を削ったり谷を埋める選択肢はなく、もとの地形がもっとも大事だったのだろう。

 クラブハウスは高台にあり、1番ティーと、9番と18番のグリーンを見降ろすことができる。「複雑な起伏」や「自然のままのセパレート」がよくわかる。

(▲クラブハウスから9番グリーンを見下ろす)

 この緑地は江戸時代、尾張徳川藩の御狩場だった。当時の藩主や武家はここで馬に乗り、弓を引き、鹿や兎を追ったらしい。時を刻んできた黒松は、弓からクラブへの”歴史”を見つめてきただろうか、などとぼくは大げさに想像してみた。

(▲1番グリーン。かつては尾張藩の御狩場…)

ふたつのPAR3 池で対面

 アウトも4番にくると名物のひとつ、五合上池が現われる。4番PAR3(レギュラー161y)と7番PAR3(190y)の2ホールが、池をはさんで向かいあっている。

(▲池の向こうに4番、左に7番のグリーン)

 4番ティーに立つと左隣に7番グリーンがあり、プレーヤーの歓声やため息が伝わってきた。7番ティーでは4番グリーンでの悲喜が感じられた。池をはさんだ空間でのこの響きあいは、視聴覚だけでく、こころの中のゴルフ仲間意識も刺激してくれて、ぼくは大好きになった。

「峠の2本松」を狙え ブラインドのS字

 8番のPAR4(338y)も面白い。ティーは、五合上池と7番グリーンを見降ろせる位置にあるけれど、打ち出していく方向は90度左、池わきの小山の向こうだ。

(▲8番の2本松。その真上が第1打のベスト)

 フェアウェイは途中まで上り坂になっていて、「峠」の右に松が2本、頼りなげに立っている。「狙いは、あの2本の松の上です」とキャディーさん。峠を越えていくと、フェアウェイは坂の向こうでSの字にくねっていた。

うねり上るPAR4 短いが落し所は狭し

 11番のPAR4(323y)も印象に残る。短いけれど、フェアウェイは狭くてうねり、左右のアリソンバンカーがいやらしい。

(▲11番のPAR4は一見すると簡単に見える…)

 第1打がまっすぐに飛んでも、少しフックするか飛びすぎると正面のラフかバンカーに入る。右にふけると、距離が出なければバンカー、飛んでも深いラフに落ちてしまう。

 さらにフェアウェイは最後は急に上るから、2打地点からグリーン面は見えない。グリーンの奥や左右に球がこぼれるとやっかいなアプローチが残る。ぼくは練習ラウンドで、左の谷に落としてダブルボギーになった。

名物14番 中央に尾根 右か左か

 もっとも有名なホールは14番PAR5(530y)だろう。ティーに立つと、フェアウェイが途中から右と左に別れているのがわかる。中央の尾根には松林が見えていて、キャディーさんがこの前に立って、ボールの行方を確認してくれる。

 飛距離に自信があれば尾根の真上へ打ち、2オンも狙える。それほど飛ばない人なら右か左のどちらかを選べば3オンはできる。ぼくは練習ラウンドも試合本番も尾根のやや左へ打っていき、ボールは左ラフにあった。

(▲14番は中央に尾根があって右か左か悩む)

  下の写真は、グリーンの手前まで行ってから、ティー方向を振り返って撮影した。プレーヤーは自分の球筋にあわせて左右どちらでも選べることがよくわかる。

 山田兼道氏の『大地の意匠 井上誠一設計ゴルフコース写真集』は冒頭の見開きにこのアングルからのショットを収録している。公式コースガイドの表紙も、この位置からの写真を使っている。

(▲14番のグリーンから振り返ると…)

 井上の回想記の次の一文の意味、この写真でよくわかる。「1ホールの必要にして十分な幅を持った平坦地が尾根によって隔てられています」。井上は「隔てられた平坦地」を選択可能な2ルートにすることで、この名物ホールに強い戦略性を持たせた。井上さん、ゴルフに必須の遊び心もたっぷりと持ち合わせていたらしい。

お帰りの黄昏 ゆったり陰影の9番と18番

 アウト最終の9番と、イン最終の18番のフェアウェイは、それまでのホールの多くがセパレートされていたのと比べると視界が開けている。この2ホールは隣り合わせにあり、区切りの松林はなく、クラブハウスに向かって広々と延びている。最後の坂の上には「大円団のグリーン」が待っている。

(▲黄昏の18番フェアウェイと陰影)

 上の写真は18番のグリーン手前から9番グリーンを見たところだ。ゆるやかな起伏と白いバンカー、鏡のグリーン、点在する黒松のそよぎ…。夏至の黄昏、微細な陰影、かすかに聞こえてくる都会のざわめきと静寂…。ラウンドをいま終えようとするゴルファーにとって、ほかに何か必要なものがあるだろうか。

家から車10分 憧れは至近だった

 この愛知カンツリーへは車で10分ほどで着ける。家からもっとも近いゴルフ場だ。しかしメンバーではなかったから、会社をリタイアするまでの35年のゴルフ人生で数回しかラウンド機会はなかった。どれも2004年の全面改修の前であり、当時のぼくは「井上誠一」の名は知ってはいたけれど、意識はしなかった。

 「井上誠一」への憧れが強くなったのは、2年前のリタイア後からだ。ことし4月、高校時代の旧友と回った井上誠一コース(大利根・笠間)がとても楽しく、巡礼記の第1弾にもできた。

 第2弾は至近の愛知カンツリーと考えていたら、中部ゴルフ連盟のアマ競技、ミッドシニア(65歳以上)、グランドシニア(70歳以上)の愛知県予選がことしもここで開かれると知った。昨年も出たけれど、プレーだけで頭がいっぱいになり、井上誠一設計の妙味まで味わう余裕はなかった。

 6月下旬に練習ラウンドと本番で2回ラウンドした。この文章に添えた写真は17日の練習ラウンドの際、同伴者に気を配りつつiphoneで手早く撮影した。文章も書いてみて歯ごたえの良さににんまりしている。なにせ「未体験の井上誠一」だけで日本各地にまだ31コースも残っているから。

予選通過 中部決勝は9月に

 23日の本番はミッド、グランドとも予選通過できた。9月の中部決勝はミッドが涼仙ゴルフ俱楽部(三重)、グランドは三甲ゴルフ俱楽部谷汲コース(岐阜)が舞台だ。

 コース設計はどらも井上誠一ではない。その後の新しいコース設計思想や造成技術を取り込んだコースらしい。それはそれで、ぼくなりに楽しんでみたい。

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