白球と戯れ38年 「晴球雨読」に褒美
所属する東名古屋カントリークラブから18日、1枚の通知書が届いた。「あなたのクラブハンディキャップが新たに『5』になったことを証明します」。ゴルフを始めて38年、シングルになってから18年、なんと71歳になって念願の”片手”に到達できた。3年前に退職して始めた「晴球雨読」の日々に神様がほほ笑み、褒美をくれたらしい。これを機にハンディを縦軸にしてゴルフ個人史をたどってみた。
<▲新ハンディ「5」の証明書>
1985年9月(33歳) 職場コンペ機に開始「36」
ゴルフを始めたのは1985年だった。すこし前からブームになっていて、所属していた経済部のコンペに誘われたのがきっかけだった。この年はプロ野球の阪神が「バックスクリーン3連発」で勢いに乗り、コンペの前夜には初のリーグ優勝を遂げた。コースは明世CC(岐阜・瑞浪)で、初スコアが「152」だったのも鮮明に覚えている。初めてのコース体験だからと、もらったハンディは「最大値の36」だったことも。
1998年8月(46歳) バンコクで夢中に「15」
ゴルフにのめり込むきっかけは1998年からのタイ・バンコクへの赴任だった。タイガーウッズの母親の母国で常夏、美しいコースが首都周辺にもたくさんあった。料金も日本よりうんと安かった。記者仲間にもゴルフ好きが何人もいた。単身赴任だったこともあり、年間のラウンド数は80-100回にも及んだ。
ゴルフという球戯にはスコアがついてくる。技量に差がある人たちでも勝敗を楽しめるようにと考え出されたのがハンディキャップだ。バンコクではコンペの時だけ独自ルールで決めていた。帰国前はたしか「15」。1ラウンドを90前後で回る水準だったけれど、ハンディに対するぼくの関心はまだ薄かった。
2001年10月(49歳) 帰国してクラブ入会
2001年8月に帰国すると、ゴルフに真剣に取り組むため、ゴルフクラブに入会することにした。いくつかの候補から東名古屋を選んだ。コースの風貌、自宅から下道で30分という立地、会員権価格を総合した結果だった。
バンコク赴任前のコースプレーはせいぜい月に1回だったが、ホームコースを持ったことでスタート予約がとりやすくなった。料金もビジターより安い。「週に1回、年に50回」のラウンドが、その後ずっとオフタイムの過ごし方の基軸になった。
入会手続きは、米国で発生した9.11テロの直後だった。ぼくは直近まで海外特派員であり、帰国後は社会部デスクだったから「オレ、こんなこと(休日はゴルフ漬け)やってていいのか」と密かに思ったのを妙に懐かしく思い出す。
2002年6月(49歳) ハンディを初取得「14」
入会後の最初の4か月で15回枚ほどのスコアカードを提出し、初めてもらったハンディは「14」だった。メンバーズボードにも名札が入り、クラブ競技にも参加できるようになった。コース通いが休日の最大の楽しみになった。
2003年7月(51歳) 小刻みに縮め「10」に
「週イチ」のラウンドを繰り返すうちにコースにも慣れ、顔なじみのメンバーも増えてきた。するとスコアも少しずつまとまるようになり、ハンディは徐々に減っていった。そして入会から2年後の2003年7月には「10」になった。
<▲左から14→13→11→10>
日本のアマゴルフプレーヤーがいう「シングル」は、ハンディがひと桁であることを示す。この球戯に魅せられ、もっと上達したいと願うゴルファーなら、ほとんどの人が目標にしてきただろう。もちろんぼくもそのひとりだった。
ネットで検索すると、シングルプレーヤーはゴルフ場にくる人の「20人にひとり」の比率だそうだ。ぼくも含めて一歩手前の同志たちが、「10」と「9」の間には大きな壁がある、ゴルフ場の審査も厳しくなる、などと話していたのを覚えている。
2005年5月(52歳) 月例会の好成績「9」「8」
シングルが見えてからは、「週に1回」はラウンドだけでなく、練習場への「週イチ通い」も習慣に加えた。そして2005年の春、月例会で2回続けて準優勝と優勝をして、ついに「9」をもらえた。それまでの練習に”貯金”があったのか、クラブ競技は好調が続き、その3か月後には「8」になった。
しかしそこでピタッと止まった。ぼくは53歳になっていた。飛距離も伸びなくなった。なによりも「シングル」になれたことで満足してしまった。向上心はほとんどなくなり、新しい目標も持てなくなっていた。
<▲左から9→8→7→6→5>
2017年9月(65歳) 12年ぶりに短縮「7」に
ふたたび向上心が沸いてきたのは2017年だった。65歳になり「ミッドシニア」の競技に出場できる年齢になった。ものは試しと、CGA(中部ゴルフ連盟)やPGS(日本パブリックゴルフ協会)の公的な試合に出てみたら、クラブ競技とはまったく別の景色と緊張があり、公式競技の愉しみを知った。
なんといっても、最大の魅力は、選手みんなが同じ年代であることだった。しかもみな、ゴルフ狂いのおじいちゃんだ。飛距離はさほど変わらなくても、アプローチとパットが絶品の老ゴルファーたちが集まってきていた。同じ”匂い”がした。
俄然やる気になって小技にも時間をかけるようにしたら、クラブハンディは12年ぶりに縮まり「7」になった。ハンディってこの年(65歳)になっても下げることができるんだ―。ぼくの視野に「片手」がちらつき始めた。
2020年6月(68歳) 完全退職し「晴球雨読」
コロナ禍だった2020年6月、68歳で新聞社を完全退職した。これからは、大好きな「書くこと」と「ゴルフ」を軸に気ままに生きていこう、と心に決めていた。
その一環として自分を「BLOGER & GOLFER→ブロゴルファー」と自称し、実名のブログサイト『晴球雨読 ― ゴルフと本ときどき映画と街歩き』をネット上に開設した。退職までの17年間、個人的にノートに書き溜めてきた未公開文章530本をデジタル化して収録した。その後も10日に1本のペースで文章を追加している。
老ゴルファーとして立てた目標は次の4つだった。
- 70歳から出られる「グランドシニア」で全国大会へ
- クラブハンディを「5」に下げ「片手シングル」に
- エージシュート(満年齢以下のスコアでラウンド)
- 英国のエジンバラに月単位で滞在し、リンクス巡り
どれも高くて厳しい目標だった。どれかひとつでもかなえば最高だと思っていた。全部だめでも挑戦に意味がある、とも。
2022年4月(69歳) 5年ぶりに短縮「6」に
東名古屋CCのティー位置は青、白、緑、金、赤の5つある。青は「フルバック」と称し西コースでは18ホールの全長が7010ヤードともっとも長い。上級者の月例会やクラブ選手権など大事なクラブ競技は、メンバーの年齢とは関係なく全員がそこから打つ。白は「レギュラー」とも称し6670ヤードと、青より少し短くなる。もっとも多く使用されるティーだ。
緑は全長6200ヤード前後で白よりさらに400ヤードほど短い。70歳以上の「グランドシニア」年齢になれば、大半のクラブ競技ではこのティーから打てる。70歳を「古稀」とも呼ぶことから、緑ティーをぼくは勝手に「古稀ティー」と呼んでいた。
ぼくも2022年の6月には70歳になるため、この年の1月から古稀ティーから打てるようになった。技量が同じなら、理論的には距離が短くなるほどスコアはよくなる。ぼくは年初のコンペでいくつか上位に入りハンディは「6」に縮まった。古稀ティー効果である。
2023年7月(71歳) ついに「片手の5」に
そして今回、ついに「片手」になることができた。古稀ティー効果に加え、グランドシニア公式試合に向けた練習の成果もあったと思う。
3月末にあったPGSの愛知県予選では敗退してしまい、中部地区大会にさえ進めなかった。力み過ぎて自滅した。そこで4月と5月の練習では、ルーティンやアドレス、リズム、小技なとを微修正した。
その結果、CGAの6月の愛知県予選は通過することができた。クラブ競技でもいい成績を残すことができて、今回の「5」につながった。
<▲直近10ラウンドのスタッツ=GDOマイページから>
直近10ラウンドのスタッツ(平均スコアや各種データ)が上の図だ。古稀ティーから回ったのが半分の5ラウンド。ほかの4回はレギュラーティーだったが、80前後で回れている。残り1回は月例会でのフルバックで、大雨だったこともあり、この10回のワースト92を叩いた。
諸刃の剣 名誉と圧力
この「片手の5」というハンディ、実はもろ刃の剣でもある。アマとして名誉なことに違いない。しかしそれゆえに、ふさわしいプレーを維持しなければという圧力を受ける。維持できなければ、同伴者が口に出さなくても、自分で自分が許せなくなる。強い自己嫌悪やあきらめから、競技引退を早めてしまう恐れもある。
いまのぼくのエネルギーは「全国切符」という次の目標だ。調子をさらに数段上げて10月のCGAグランドシニア中部決勝で上位に入り、全国大会への出場権を得たい。神様がさらに微笑んでくれるように、この夏も地道な練習を重ねていこう。それしか、道はない。