映える「黒」と「反り」 61度勾配のリアル
所属合唱団の活動で松本市を訪れた際、松本城を初めてじっくりと観た。12ある現存天守のうち国宝でもある5城のひとつ。板壁の「黒」、漆喰の「白」、石垣と破風の「反り」がフォトジェニックだった。内部階段は勾配が61度もあってリアル。わが名古屋は「国宝1号の城」を戦災で失った。国宝の輝きと吸引力、そして「信州・松本は城で持つ」まで実感し、うらやましかった。
(2024年7月12日、松本市)
松本市で開かれたのは「第9回全日本男声合唱フェスティバル」(写真1)。ぼくが所属する男声合唱団「ムッシュ かきつばた」も参加することになり、本番2日前の7月12日、ひと足先に現地入りして松本城に向かった。
松本城は2015年に一度だけ訪れたことがあった。クラシックホテルを巡るバス旅の初日に、松本で1時間半ほど自由時間があった。松本城と旧開智学校を妻と歩いて回ったが、松本城は外から眺めただけ。内部まで観るのは今回が初めてだった。
フォトジェニック 水面への映り込み
松本駅から北へ歩いて10数分もすると、天守の一部が見えてきた。内堀に着くと80mほど先に天守閣が横たわっていた。この日は曇り空で、雨混じりの天気だったけれど、水面を鏡にして映り込む構図は、写真映えがする(写真②)。
これを、フォトジェニック、というのだろうか。もし好天で青空が広がり、北アルプスまで見えれば、だれが撮っても「らしい」写真が撮れるだろう。
黒門で入場料を払って本丸に入る。これまでに観てきたほかの国宝天守4城(犬山、彦根、松江、姫路)も思い出しながら、松本城が写真映えする要素は何なのか、外観の特色をぼくなりに考えながら巡っていった。
■「黒」と「白」 水平のリズム
ずっと眺めていると、外壁の色に目がいった。大天守も小天守も櫓(やぐら)も外壁は白と黒で覆われている。古い案内板にはこう書かれている。
白漆喰(しっくい)の大壁
黒漆(うるし)塗りの下見板
どの外壁も、上部は「白い漆喰壁」になっていて、下部は「黒い板壁」に覆われている。白と黒が水平に走り、心地よい緊張を生んでいる(写真③)。屋根瓦がつくる縦線と呼応するかのように。
とくに「黒」に松本城らしさを感じる。シックでおしゃれで現代的だ。案内スタッフが来ているTシャツも黒だった(写真④)。
この黒は、同じ国宝天守の姫路城(写真⑤)とは対照的だ。姫路は「白鷺城」とよばれるように「優雅な白」が持ち味だった。
■ 烏(からす)城の異名も
そう思ったのは、ぼくだけではなかったらしい。帰宅してネットで松本城のwikipediaを読んだら、終わりの方に「烏(からす)城という呼称について」という欄があって、とても驚いた。要点は―
「長野県民俗の会」の2020年の会誌によると、昭和40年代以降に生まれた市民は呼称を認知していた。しかし由来を語る人はいなかった。長野県観光連盟が1966(昭和41)年に発行した『信州の歴史と旅』に「色が黒くて烏城とも呼ばれる現在の松本城は…」という一文があり、初出と推定される。この年に松本市は姫路市と姉妹都市提携しており、白鷺城こと姫路城との対比でキャッチフレーズ的に使い始めた可能性がある。「からすじょう」と読むのは、烏城(うじょう)こと岡山城を意識してのものか。
「烏城(からすじょう)」の呼称について、松本城管理事務所は、歴史的な文献などに存在しない、として誤りとの見解を示している。
うーん、これは面白い。松本市は姫路城との違いを出すため、黒を意識させる「烏(からす)」を使い始めたものの、都会でのゴミ荒らしや不吉な印象を連想する市民から反発が出たのか、途中で封印したらしい。このまま消えるか、秘かに語り継がれるか、新たな呼称が生まれるか。市民の判断が楽しみだ。
■ 風雅な「反り」 石垣と破風
写真映りの良さのもうひとつの要因は「風雅な反り」にある気がする。構成しているのは次の三つだ(写真⑥)。
緩い傾斜の石垣…とくに四隅の算木(さんき)積み
下がせり出した板壁…石落とし設置のため
千鳥と唐…屋根にリズムよぶ破風(はふ)
これらが組み合わさり、現代の文化都市、松本のシンボルにふさわしい、やわらかい感じがにじみ出ている。
内部はリアル 61度の急階段
内部に入ってのいちばんの驚きは、階段の勾配が急だったことだった(写真⑦)。4階から5階への階段は61度もある(写真⑧)。手で手すりを支え、ゆっくりでないと、とくに下りが危険だ。蹴上は39.5cmもあり、上りでひざを曲げすぎると脛を打ってしまう。
むかしの武士たちが使ったのと同じ階段を上り下りしている―。足腰が感じる緊張や疲労や不自由さが、この城ができた「430年前」をリアルに感じさせてくれる。客の3割はいるとみえた海外客も、大騒ぎしながら楽しんでいた。
いまの建築基準法ではありえない階段を、観光客が追体験できるのも、国宝だからだろう。名古屋城の木造復元をめぐるバリアフリー論議も思いながら、一段一段をかみしめながら上り下りした。
景色なら犬山城に軍配
ただ6階の最上階から見える景色に驚きはなかった。松本市内が四方に見渡せる(写真⑨)とはいえ、高さ29mは、現代のビルなら7階建てくらい。天守からの眺めなら、国宝5座の中でも犬山城(写真⑩)が抜きんでている気がする。木曽川の流れを眼下に見下ろした時の驚きは、いつ訪れても色褪せない。
■うらやましい 文武両”宝”
松本城について、案内看板や観光バンフには必ず「国宝」の2文字が前に入れてある(写真⑪)。市の条例で決まっているかのように―。市民がこの城の存在をいかに誇りに感じているかが伝わってくる。内外から観光客を呼び込もうという強い意志も感じる。
ぼくが住む街の象徴だった名古屋城は1615年の築城とされる。松本城の1594年より10年ほど遅いが、その巨大さと均衡のとれた姿から、大阪、熊本と並ぶ「日本三名城」とされてきた。その後の変遷は次の通りだ。
・江戸時代の俗謡「尾張名古屋は城でもつ」
・昭和5年「城郭では第一号の国宝」指定
・昭和20年5月の名古屋大空襲で焼失
・昭和34年に鉄筋コンクリート再建(写真⑫)
RC再建から12年後の昭和46年、ぼくは舞鶴市から名古屋に出てきた。あれから54年、名古屋の街に歴史的建造物が少ないのを残念に思い、何度も「名古屋城さえ残っていれば…」と思ってきた。
そして今回、「国宝」松本城を観て同じ思いをした翌日の13日朝、宿のロビーで観たポスター(写真⑬)に、あらためて衝撃を受けた。
ふたつの歴史的建造物の写真があしらってあり、上が「国宝 旧開智学校」、下が「国宝 松本城」。いちばん上に大きく「文武両宝」とある。「文武両道」の「道」を「宝」に変えた造語だ。
上の開智学校は明治9年にできた擬洋風の校舎建築で、「文」の代表。”教育県”としての矜持も含んでいるだろう。
松本城は「武」の代表。武士が戦うための城というだけでなく、地元のJリーグチーム「松本山雅」の応援気分もあろう。建設年も国宝指定も城の方がはるかに先だが、「文武」の順だから下になっている。
「この街と生きていく」。地元の信用金庫の標語らしい。市民共通の思いでもあるだろう。
宿の近くから乗った松本駅行きのバスは、途中、信州大学と松本城のすぐわきを通っていった。城は街のど真ん中に悠然とそびえていて、シックで威厳ある「黒」をまとっていた。車窓からその姿を眺めながら、ぼくはこうつぶやいていた。うらやましさをたっぷりと含ませて―
「信州・松本は城で持つ」