幸不幸の情景 医師の目 作家の筆
(講談社現代新書、2023年10月発刊)
筆者は現役の医師であり、小説家であり、68歳の高齢者だ。老いには無闇に抗(あらが)わず、上手に受け入れて穏やかに過ごし、達観して死を迎えようと勧めている。医療に頼りすぎると心配ばかり増えて時と金を無駄にすると書き切り、ちまたの”前向き情報”も鵜呑みするなと警告する。老人の幸不幸の情景が、医師の目と作家の筆を通して写実的に描かれ、72歳のぼくも自分の近未来を投影していった。

■ぼくの近未来 事例のあちこちに
筆者の勧めは明快だ。あとがきがわかりやすい。

ーー健康について多くの人が心配しすぎだと感じています。その心配が時間的、経済的、精神肉体的に多くの無駄を作り出しています。(p231)
ーー老いも死もイヤなことですが、直視し続けていれば次第に慣れます。自然なこと、当たり前のことと受け止められれば、無闇に抗(あらが)おうとはせず、受け入れる気持ちも生まれてきます。そうなれば心も落ち着き、穏やかに暮らせるようになるでしょう。(p232)
筆者はこれまでたくさんのお年寄りを診断し、相談に乗ってきた。だから具体例が豊富だ。作家だから表現にも過不足がない。
・健康を過度に心配することが老人をいかに不幸にさせているか―
・老いを受け容れられないでいる老人がいかにみじめか—
・老いを受け入れ達観できている老人のなんと穏やかなことか—
わりやすい事例のいくつかに、ぼくは自分の近未来を重ねていった。オレもこうなりたいなあ、最悪でもこうはなりたくないなあ、と。
■「長生き」肯定言説に警告
筆者はまず「前向き情報」に強い警告を発している。新聞やテレビの健康食品広告、老いをテーマにした啓発本などで頻繁にみかける。

ーー世の中にはそれ(長生き)を肯定する言説や情報があふれています。曰く「八十歳からの幸福」「すばらしき九十歳」「人生百年!」「いつまでも元気で自分らしく」「介護いらず医者いらず」等々。そのことに私は危惧を深めます。そんな絵空事で安心してよいのかと。(p5)
ーー欲望肯定主義の世の中はまったく油断がならず、不幸と不満を増大させる勘ちがいを引きおこす”罠”に満ちています。その最たるものが、スーパー元気者の活躍です。(p192)
ぼくも新聞社の編集デスクだったころ、この種の記事を紙面化したことがある。40代だった。その記事が普通の老人に余分な期待を抱かせ、逆効果になる恐れもあるなんて、考えもしなかった。
ーーそれ(老いと死を受け入れられない)に輪をかけるのが、背の中にふれるきれい事情報、優しい絵空事情報、まやかしの希望情報です。中には有効なものもあるかもしれませんが、医学的にエビデンスがあるものは皆無です。(p231)
医師として「エビデンスがあるものは皆無」と言い切っている。ぼくもいま72歳だから、この手の情報や記事には惹かれるところがある。「80歳までは18ホールを歩いて回れる脚力を維持したい」と、サプリ情報や健康維持法を仕入れてきた。
そんな準備のどこからが「老いに対する無益な抗い」につながるのだろう。読みながら考え始めている。これからもずっと考え続けるだろう。
■「認知症は恐くない」「がんは共存の道も」
この本のもうひとつの特色は、現役の医者らしく、老人が気にする病気について最新医学にもとづいた平易な解説があることだ。認知症についてはこう言い切っている。

ーー認知症にはほかの難病とは決定的に違う側面があります。それは病気になったあと、病気であることを認識できないということです。わからなければ、恐れる必要も悔やむ心配もありません。(P89)
がんについても最新の医学的知見を整理したうえで、こんな光をくれる。
――今はがん治療に、治るか死ぬかに加え、第三の道が拓(ひら)けてきたのです。それは治らないけれど死なないという状況です。これは抗がん剤治療を専門にする腫瘍内科の勝利です。(中略)いわゆるがんとの共存です。(中略)がんでもすぐ死ぬわけでなく、あまり長生きしすぎずに、適当なところで死ねるという事実が広がれば、それほどがんに神経質になる必要もなくなるでしょう。(p165)
なるほど、むやみに警戒しなくてもいいんだ。認知症になったり、がんが再発しても、それは老いの自然な形だと受け入れて安気に過ごしていこう、と思える。
■「医療を過信するな」
筆者はその一方で「医療の限界」を明示し「現代医療への疑問」も隠さない。医療に幻想を抱くな、医療を過信するな、と。ほとんどの医療者はネガティブな話を語りたがらない、自己否定につながるから、としたうえでこう書く。
ーー医師同士の飲み会に行くと、世間にはとても聞かせられないような話がポンポン飛び出します。たとえば、無駄な検査や治療は収益を上げるためとか、CTスキャンで浴びる放射線は恐ろしいとか、(中略)念のためという便利な言葉で薬と検査を追加するだの、がん検診は穴だらけだの、(中略)認知症は治らない、予防もできない、でも本当のことを言うと患者さんが来なくなるので言わない等々です。(p120)
このくだりには、医師としての良識だけでなく、真実を書かずにいられない作家精神もみなぎっている。
■「老い本」界に疑問の書?
この本は朝日新聞の2024年11月9日朝刊で知った。読書面の「売れてる本」欄に、発刊1年で10刷5万2千部とあった。エッセイスト酒井順子さんがこう書いていた。

ーー高齢者を読者とする”老い本”の刊行が盛んだ。(中略)本書もまた老い本の一環であるものの、老い本界に対して疑問を呈する書にもなっている。
ーー多くの人が思っていながら表には出しづらい事実をずばりと書くことによって、世に大きな問題を提起する書。
ぼくも「老い」についての評論や小説を読んだり映画を観て、印象記をこのサイトに公開してきた。「定年・老後」のタグをつけたのは66本。そのなかの評論やエッセイ6冊とぼくがつけた見出しを執筆順に記すと―
曽野綾子『人間にとって成熟とは何か』=2013年10月
「昭和ひと桁」の強さ 品のいいおばあさん
五木寛之『新老人の思想』=2014年1月
「逝きかた上手」「棚に上げ」…染みる言葉
赤瀬川原平『老人力全一冊』=2014年12月
力まず威張らず「まっ、いいか」

五木寛之『孤独のすすめ』=2017年9月
今のままでいいよと背中を押された
楠木新『定年後』=2017年11月
「青春の夢 思い出せ」定年指南の定番に
和田秀樹『60代と70代 心と体の整え方』=2021年2月
「もっと肉を もっと光を」歯切れいい勧め連発
最後の和田秀樹氏も「医師で作家」だ。しかも久坂部氏と同じように、普通の医者なら言わないであろうことも勧める。「クスリと書いてリスクと読む」「健康診断は受けない」「がまんは美徳じゃない」「孤独は悪くない」。その後も同様の本を連発している。
和田、久坂部両氏とも読者の多くは、1947年から49年に生まれた団塊の世代だろう。ことし中にみな75歳以上の後期高齢者になる。久坂部氏の勧め「医療への幻想を捨てよ」「健康情報に踊らされるな」「あきらめが幸せを生む」は彼らにも届いている気がする。ぼくが思っているよりも、しっかりと。