
飛び越せ日本…66歳で拳母に
豊田市博物館を2月11日に初めて訪れ、企画展で伊能忠敬 (いのう・ただたか、1745~1818) が江戸時代に描いた「日本地図」に見入り、坂茂 (ばん・しげる、1957~) が設計した「現代建築」を歩き回った。隠居後に測量を始めた忠敬はどんな心身で全国を行脚したのか―。先達設計の美術館の隣で坂氏はどんな独創を描いたのかー。足跡をたどると、どちらも「飛び越せニッポン」が動力源。しかも忠敬が1811年に拳母 (いまの豊田市) を測量した時も、坂氏が2024年に博物館開館を迎えた時も66歳だった。213年の時を隔て「地図」と「建築」が響きあっていた。
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■伊能の地図 3つの驚き
企画展「伊能忠敬―新しい地図の世界へ―」の出品リストには、国宝23点を含む72点が掲載されている。
① はいつくばって見入る
まず目に飛び込んできたのは「伊能中図原寸大復元シート」だった。日本列島の大きな地図が床に敷いてあり、透明ビニールシートがかぶせてある。何組もの親子連れがシートにはいつくばり、地図を指さしたり、写真を撮ったりしていた。

伊能忠敬は測量をもとに「大図」「中図」「小図」を描いた。複製が床に展示されている「中図」は縮尺が「21万6000分の1」。地図上の5cmは10kmちょっと、というサイズ感だ。
ぼくも靴を脱いであがり、はいつくばった。まず探したのは、いま住む「八事」だった。「名護屋」から東南へ、飯田街道をたどっていくと、あった! 筆書きで「…川名村 八事村 植田村 平針村…」。地下鉄の駅名がそのまま並んでいる。200年前からこの地名だったのか ! 江戸時代からのつながり感、心地よかった。

いま地図はスマホやカーナビで簡単に見ることができる。縮尺も自由自在。なのに江戸時代の手書きに見入ってしまう。当時の街道や集落の気配、デジタルにはない手触り、200年もの年月を感じるからだろう。
②55歳で「地球の大きさは?」
伊能忠敬はぼくが退職前から気になっていた偉人だ。詳しい足跡を初めて知り、驚きの連続だった。中島学学芸員の図録解説によると―
・17歳で下総国の商家、伊能家の婿養子に/酒造や金融で財を増やし名主もつとめた
・49歳で隠居し江戸に出て幕府の天文担当者に弟子入り/暦学や天文学を学び始めた
・地図づくりの契機は「地球の大きさを知りたい」の探求心/幕府許可を得るため「蝦夷地図作成」を加えた/測量開始は1800年、55歳だった
・第七次測量中の1811年、八事を経て上伊保(豊田市保見町)を測量/66歳だった
足かけ17年、10回の測量を経て、1818年に死去した。幕府に提出する地図の制作中だった。享年73歳は、なんと、ぼくのいまの年齢と同じだった。
③ 健康法は「午前に10km」
忠敬は55歳から71歳まで、測量しながら全国を歩いた。200年後のいまなら15歳を足して「70歳から86歳」だろうか。恐るべき気力と体力である。「健康法とは?」の展示が面白く、人だかりができていた。「測量日記」から導いた結論は―

測量を継続的に実施するための身体的マネジメントとは、歩行距離を10km程度に抑えること、測量時間は午前とすることにより、足腰に負担がかかりすぎないにして、上手にケアしていたと考えられる。(展示パネルから)
午前に10km―。これってぼくのゴルフと同じじゃないか。朝7時にスタートし休憩なしで18ホール回ると12時すぎだ。いちど万歩計をつけ徒歩でラウンドしたら1万3千歩だった。歩幅は約70cmだから9kmちょっと。なんだか、自信と親近感がわいた。
■博物館の設計 3つの驚き
博物館を設計した坂茂氏は、いまの日本を代表する建築家のひとりだ。2023年の映画『PERFECT DAYS』の透けるトイレにはたまげた。豊田市博物館は2024年4月に開館し、ぼくの家からも近かったが、見学はつい先延ばしにしていた。
「伊能忠敬」展にも惹かれ、初めて実作を見ることにした。予備知識なしで見たくて、ほとんど予習せずに出かけた。
① 木組み天井 意匠は「市章」


駐車場から坂道を上り博物館に近づくと、木造の大屋根が迎えてくれた。柱は集成材だろうか、6本を束ねるようにして上にいくほど細くなっている。
天井は梁の木組みがむき出し。矩形の梁と斜めに走る梁がからみあっている。見たことない意匠だ。どんな意味を込めているのだろう。
中に入ると、高さ10mほどの吹き抜けは「えんにち空間」の名がついていた。庭側は全面ガラス張り。ここでも大屋根天井の木組みが細長くて大きな空間を支配している。
売店で買った建物ガイドを帰宅して読んでいたら、疑問が解けた。坂氏がこう書いている。
屋根の木造パターンは、豊田市の市章を構造化したものである。入口ポーチのトップライトに夏至の正午に光が差し込むと木梁は市章パターンの影を床に落とす。(p8)

ネット上で豊田市のHPを見たら、市章(左)は1951年、拳母市の誕生にあわせて制定されていた。かって「衣の里」と呼ばれていたことから「衣」の文字を図案化した。市の名が1959年に「豊田」に変わってからも、この市章は変えていない。
② 日用品も巨大棚に常設展示
次の驚きは常設展示室の巨大な展示棚だった。高さも幅も8mほどある。「とよたモノ語り」と名づけられ、白フレームの区画にいろんなモノが展示してある。ところどころに大きな区画もある。どの区画も向こう側が透けて見える。

展示品は森羅万象、種々雑多だ。大区画には鹿の木彫り、鎧兜、ひな壇、元南海の杉浦のユニフォーム…。小区画には昭和の郵便局やたばこ屋の看板、コミック、酒とっくり…。市民から寄贈された思い出の品々だろうか。坂氏はこう書く。
博物館の宿命として、所蔵品のほとんどは収蔵庫に収められ、展示されるものはひとにぎりである。それらの日の目をみない日用品は(中略)ストーリーを分析して解説してみると、とても新鮮で多くの発見や学びがある。そこで、それらを収蔵庫に眠らせるのではなく、集合展示として常設展示室の中央に巨大な多層のガラス張り展示棚の中に展示できるようにした。(建築ガイドの8p)

豊田市はトヨタ自動車の企業城下町だから、初代クラウンも展示してあった。でも自動車会社はすでにトヨタ博物館(長久手)やトヨタ産業技術記念館(名古屋市)を自前で開設していて展示も充実している。その2館が扱わない市民の日常の暮らしぶりとか歴史をどう伝えるか。それがこの博物館の大きな使命なのだろう。

そんな文脈で見ると、巨大展示棚は市民の記憶が”てんこ盛り”になっていて、存在感は初代クラウンを圧倒しているように感じる。「この博物館のユニークなアイデンティティーとなった」と坂氏は書く。その見方にぼくは同意したい。
③ 美術館との対比と調和
この博物館の南隣には豊田市美術館がある。開館は20年前の1995年、建築家・谷口吉生(1937~2024)の代表作のひとつだ。コンクリートとガラスの直線的な構成が知的で美しく、抒情も漂っている。その後に設計したMoMA(ニューヨーク近代美術館、2004年)や鈴木大拙館(金沢、2011年)、GINZA SIX(2017年)を訪れた時も、ぼくは洗練された近代美を感じた。
この「2世代前の先達の名作」と坂氏はどう向きあったか―。現地で見た印象に、帰宅後に読んだ建築ガイドや坂氏の文章を総合すると、「均衡ある対比」と「包み込む調和」ではなかったか。

意匠言語はかなり違う。美術館はコンクリートと直線を多用している。博物館はシンボルの大屋根に木と斜めの梁を使い、展示室には曲線の階段と連続窓も取り入れた。坂氏も「対比することとした」と書いている。
一方で坂氏は、建物の高さを美術館にそろえたり、前庭のランドスケープを美術館と同じデザイナーに依頼することで「調和」させた。坂氏は「相乗効果をもたせる」「連続するランドスケープ」と書いている。ガイド本の航空写真でそれを実感した。

■「飛び越せ日本」でも共鳴
谷口氏と坂氏の経歴をwikipediaで確認していて、大きな共通点に気づいた。ともに日本生まれだが、建築の勉強は米国で始めていた。谷口氏は慶大で機械工学を学び米ハーバード大学院へ。坂氏は高卒後に渡米し、南カリフォルニア大建築大学へ―。
ふたりとも若いころから視野には「飛び越せニッポン」があったのだろう。建築家として独立してからも、海外でも仕事を重ね、高い評価を受けてきた。
もうひとつ。豊田市がこれだけ立派な美術館と博物館をもてるのは財政が豊かだからで、それを支えているのは自動車会社と社員の税金だ。この会社も早くからクルマの普遍性に着目し、製造・販売先を広く海外にも求めてきたからこそ、今日の隆盛があると思う。



<▲(左)谷口吉生氏(中)坂茂氏=wikipediaから(右)伊能忠敬の唯一の肖像画=展示から>
ふたりの建築家、そしてトヨタの海外志向は、江戸時代の伊能忠敬が50歳をすぎても「地球の大きさを知りたい」と願ったのと通じるものがあるのではないか。伊能忠敬の崇高な学究心が地図づくりに発展し、それが、この豊田での企画展につながった―。不思議な連鎖を感じ、ひとりにんまりしている。
すでに書いたとおり、忠敬が測量のため全国を行脚中の1811年に拳母(現豊田市)を訪れたのは66歳の時だった。博物館が開館した2024年4月は、坂氏も66歳だった。そんな一致にはなんの意味もないかもしれない。でも73歳になったぼくには、「飛び越せニッポン」という思いの共鳴が、しっかりと聴こえる。
