5 映画 銀幕に酔う

「おふくろ」の呵責に焦点 更なる高みへ…TVドラマ版『母の待つ里』

宮本信子すごい 遠野と文楽も力

 (2024年9月放映、録画視聴)

 原作を読んだ4日後、こんどはTVドラマ版を録画で観た。都会生まれの還暦男女を「息子」や「娘」として迎える「母」の素朴さと、報酬をもらい演じることへの「呵責」に焦点をあて、さらなる高みに達している。劇中劇を演じ分ける宮本信子の表現力がすごい。ロケ地・遠野の美しくも懐かしい光景、文楽・人形浄瑠璃の映像が訴求力を高めていた。原作もドラマもプロの技だ。

■呵責の吐露 生まれる思いやり

 ドラマの主人公は、限界集落になった村の曲がり家でひとり暮らす老女だ。彼女が、カード会社の「ふるさとを、あなたへ」のサービスを里が提供するときの主役になり、報酬をもらい「架空の息子や娘を迎える母」を演じる。いわば劇中劇、入れ子構造になっている。

<▲文庫本のカバー>

 映像化にあたり脚本家は、村の老女が金をもらい架空の母を演じることへの呵責や戸惑い、辛さを感じるところをとくに大事にしていた。「ふるさとの母」が、逢いにきた「息子」や「娘」に辛さをつい吐露してしまう場面にも焦点を当てている。

 それがドラマをきゅっと引き締まらせていた。「息子」や「娘」は、呵責と吐露が「母」の心の奥底から生まれているとわかってから”本気”になり、実際の母子と変わらないか、それ以上の思いやりが芽生えていくからだ。ぼくは観終わってから、そうか、「母」の呵責と吐露が物語の芯だったのだ、とさとった。

 ドラマではまた、原作にはあった場面を入れなかったり、人物関係を簡略化したり、逆に原作にはないシーンが出てきたりした。それらもみな、原作の魅力を映像で最大限に引き出すための選択と集中だったのだろう。

■劇中劇 「母」の素朴さ決め手

 原作が素晴らしいだけに、どんな俳優がどう演じるかも見ものだった。期待は裏切られなかった。というより、期待をはるかに上回る素晴らしさだった。なかでも「里で待つ母」を演じる宮本信子が、すごい。

 「架空のおふくろ」を演じるときも、呵責を吐露するところも、この老女ならそうだろうと思わせてくれる自然さをまっとっていた。名古屋育ちで愛知淑徳高OG、故・伊丹十三監督の妻だった79歳。宮本さん、参りました。

名古屋が生んだ才女優ふたり

 名古屋育ちといえば、竹下景子さんも南山女子高OGの71歳。先月急逝した西田敏行とNHKラジオ「新日曜名作座」を16年も続けてきた。縁あって名古屋に出てきて居ついたぼくは、年代も近いおふたりに親近感を抱いてきた。このドラマを観て、勝手に「名古屋が生んだ”才女優”ふたり」と呼ばせてもらうことにした。断りもなしに、失礼なのは承知で…。

3人の「還暦」も持ち味
<▲(左から)佐々木蔵之介、中井貴一、宮本信子、松嶋菜々子=HPから>

 もちろん「息子」を演じる中井貴一と佐々木蔵之介、「娘」を演じる松嶋奈々子も申し分なかった。「ふるさとの母」に逢いにやってくる還暦前後の訳あり男女の昂ぶりを、それぞれの持ち味を生かしながら、演じきっていた。

 なかでも中井貴一は、やはり浅田次郎原作の映画『壬生義士伝』でも主役だったからか、もっとも画面に溶け込んでいた。

■ぴったり遠野 人形浄瑠璃の妖艶

 原作にある里の景色がどう映像化されるかも注目だった。田んぼとそれをとり囲む山々、桜と色とりどりの樹々、民家の連なり、そして「母」がいまも住む曲がり家…。そんな村が現存しているのだろうか、自然な形で撮れるのだろうか、と。

 杞憂だった。活字から想像した光景が過不足なく、いや想像を超える美しさで映像になっていた。NHK公式ホームページによると、ロケの撮影は岩手県遠野市で1か月にわたって行われたという。自分が生まれ育った京都・舞鶴の実家を思い浮かべ、記憶と比較しながら、またも懐かしさに包まれた。

<▲舞鶴のぼくの実家=1991年の空撮>

 映像ならではの”創作”にも素晴らしい効果があった。「母」が「息子」や「娘」に昔ばなしを岩手弁で聴かせる重要場面では、人形浄瑠璃がその昔ばなしを演じる映像が流れた。もちろん小説にはない。妖艶でなまめかしく、不気味で虚無的…。昔ばなしが包含する優しさと哀しさを、よりいっそう深く感じさせてくれた。

リスペクト プロの技

 ぼくは小説を書いたことはない。ドラマや映画づくりに関わったこともない。それをわきまえたうえで、こう感じる。

 このドラマは原作を十二分にリスペクトしたうえで、映像がもつ集約力と訴求力を生かし、原作の核心部分をしっかり引き出していた。小説も映像化ドラマも、最高の技量を持つプロの技だった。

こんな文章も書いてます