「逝きかた上手」「棚に上げ」…染みる言葉
(幻冬舎新書、2013年12月)
ぼくは学生時代、筆者の小説やエッセイに夢中だった。自分にも近いと思える主人公たちが青春の夢や悩みと格闘していた。雑誌グラビアで見る近影も、昭和ヒトケタの自由人の感じがして格好よかった。本棚には21冊が並んでいる。
でも社会人になってからは著作からは遠のいていたので、このエッセイは久しぶりの五木ものである。
いま81歳、老いる体をいたわりながら『日刊ゲンダイ』にエッセイを書き続けている。前著の『下山の思想』(2011年)もこの新作もそこから生まれた。地方紙に『親鸞』を連載しながらの執筆。超人としかいいようがない。
本書で筆者は、急速に膨れつつある老人層は新しい「階層」だと指摘する。その一方で、マスコミはスーパー老人を「こんなことがまだできる!」と肯定的に取り上げすぎると批判もしている。賛同するけれど、そもそも筆者の仕事ぶりこそスーパー老人、すごいと最初に褒めたくなってしまう。
胸に刺さる言葉が多数ある。仏教にも詳しいから浸みてもくる。例えば―
- 生き方上手より「逝きかた上手」に。意味のない長寿がもっとも怖い。
- キリスト教は青年の宗教で永遠の青春の香りがする。仏教は老人の宗教で苦から始まる。もしイエスが80歳まで生き、ブッダが30代で死んでたら…。
- 自然のリズムは「落地生根落葉帰根」。目が出て、若葉から青葉に変わり、紅葉して散っていく。ナチュラルなエイジングとエンディングを。
- 自分のことは「棚に上げ」。気にせずに言いたいことは書く。
- 新老人には5つのタイプがある。肩書志向、モノ志向、若年志向、先端技術志向、放浪志向。筆者にはどの部分もある。
(注) 2020年7月20日追記
驚いたことがある。「昭和ヒトケタ世代」をネットで調べていて気づいた。筆者は1932(昭和7)年9月30日生まれで、なんと、石原慎太郎と同じ日なのだ。
慎太郎は一橋大時代に『太陽の季節』でデビューし、弟の裕次郎とともに「時代の寵児」として光り輝いてきた。筆者は早大露文科を中退して編集者や作詞家を兼ねながら修行し、作家デビューは30歳過ぎである。
筆者はまったく同い年の慎太郎をどう見ていたのだろう。政治家にもなった生き方は、筆者にはどう映っているのだろう。すでにどこかで書いているのだろうか。