4 評論 時代を考える

なぜ退屈するのか 1万年来の問題に挑む哲学書…國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

先人の叡智集め 難解だけど面白い

 とぼけた主題だなあ、ぼくのような遊休老人への指南書かもしれない—。この本の題名を初めて見た時の印象だ。ところがどっこい「暇と退屈」は人類が1万年前から抱える大問題らしい。しかも西欧の著名な先人の論考が次々と出てくる。難解な哲学表現に老いた脳で必死についていきながら、自分の晴球雨読の暮らしと照らしあわせていた。手強かった、でも、面白かった。

 (初版2011年10月、増補新版2015年2月、文庫2022年1月)

■「東大・京大で一番読まれた本」

<▲店頭の広告看板=未来屋書店イオン八事店で>

 いつもの本屋さんで、その広告看板を見たのは4月15日(月)の夕方だった。
 「2023年 東大・京大で1番読まれた本」「30万部突破」
 ああまた、例の外山滋比古『思考の整理学』かと思いながら書名を見たら『暇と退屈の倫理学』とあった。

 強い違和感を感じた。「暇と退屈」はぼくみたいなリタイア老人の代名詞なのに、なぜ「倫理学」とつながるのか。和田秀樹に代表される”老人生き方本”のひとつに見えるが、なぜ「東大・京大で一番読まれた本」になるのか。

 平積みから一冊を手に取り、まえがきを読み、目次に目を通してから哲学の本と知った。2月に読んだ哲学書、東浩紀『訂正する力』に手ごたえを感じたのを思い出し、読んでみる気になり、そのままレジに向かった。

■まえがきの熱に惹かれ

 冒頭の「増補新版のためのまえがき」が熱を帯びていた。書き出しから筆者の肉声が噴き出ている。

 我々は妥協を重ねながら生きている。
 何かやりたいことをあきらめたり、何かやるべきことから眼を背けているだけではない。
 どういうことなのか。なぜこうなってしまうのか。何か違う、いや、そうじゃなんだ……。

そして後半、次の部分にも惹きつけられた。

 この本はそうした妥協に抗いながら書かれた。自分が感じてきた、曖昧な、ボンヤリした何かに姿形を与えるには、それが必要だった。
 もちろん妥協に抗うことは楽ではない。けれども大きな慰めもあった。自分が相手にしているなにかは、実は多くの人に共有されている問題であること、それどころか、人類にとってのこの1万年来の問題であることが分かってきたからである。
 その問題は「暇と退屈」という言葉で総称されている。

■「暇」は客観 「退屈」は主観

  <▲帯にも派手な惹句とコピー>

 しかしその後の記述は、ぼくには平易ではなかった。哲学書と覚悟はしていたが、予想以上に手強い。「第1章 原理論…ウサギ狩りに行く人は何が欲しいのか?」、「第2章 系譜学…人間はいつから退屈しているのか?」と読み進めながら、現代の「暇と退屈」にどうつながるか想像するのは容易ではなかった。

 そして「第3章 経済史…なぜ”ひまじん”が尊敬されてきたか」で、ほっと一息つけたのだった。

 「暇」と「退屈」という二つの語は、しばしば混同して使われる。
 (中略)
 暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなかにいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり暇は客観的な条件に関わっている。
 それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のことだ。

(p119)

 うーん、この定義も哲学的だ。でもこう整理すると、「暇だけど退屈」「暇じゃないけれど退屈でもない」などの4つの類型ができる。そんな解説も随所に出てくる。

■著名思想家が続から次へ

<カバーの筆者略歴>

 もうひとつ驚くのは、著名な哲学者や思想家の著作が次から次へと引用されることだ。ぼくが知っている名前だけをノートに書き留めていったら下記の10人になった。

バートランド・ラッセル (1872-1970)
ジョン・ガルブレイス  (1908-2006)
ウィリアム・モリス   (1834-1896)
プレーズ・パスカル   (1623-1662)
フリードリッヒ・ニーチェ(1844-1900)
マルティン・ハイデッガー(1889-1976)
ジークムント・フロイト (1855-1939)
ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)
カール・マルクス    (1770-1831)
スピノザ        (1632-1677)

 恥ずかしながら、どの先人も名前は聞いたことがあるけれど、著作を読んだことはない。名前も知らない人を含めると、引用されている先人は20人を上回るだろう。

 「暇と退屈」やその関連分野について、西欧の多くの思想家が論考を重ねてきたことに驚く。そして、巻末にある注の多さと引用の丁寧さにも―。

■退屈こそ自由である証拠

 したがって論点は多岐にわたっていて、まとめるのがぼくには難しい。最後まで読み終えてみて、現代人の目線で論点を絞ると、本屋さんにあった広告看板の真ん中のコピー(下の写真)がよくできていると思う。

<▲広告看板の真ん中にあったコピー>

 最後の「我々はどう生きるべきか?」はおそらく、吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』とその漫画版や、ジブリ映画を意識しての文言だろう。

■倫理学の「結論」も

 経済史の後に「阻害論…贅沢とは何か?」「哲学…そもそも退屈とは何か? 」「人間学…トカゲの世界をのぞくことは可能か ? 」「倫理学…決断することは人間の証しか?」と続いていく。章が進むごとに、問いも深くなっていく。

 そして最後になんと「結論」が出てきた。「倫理学」だからやはり、何をなすべきかが言われなければならないだろう、と。

<結論1> p390
・こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない
・本書をここまで読んできたことこそ実践のひとつに他ならない

<結論2> p394
・贅沢を取り戻すこと
・現代の消費社会は終わることなき観念消費のゲームになっている
・観念ではなく物を受け取り、衣食住や芸術・芸能を楽しめ

<結論3> p409
・世界には思考を強いる物や出来事があふれている
・楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができる
・<人間であること>を楽しむことで<動物になること>を待ち構えることができるようになる。

 結論2のなかの「観念ではなく 物を受け取る」と、結論3の「<動物になること>を待ち構える」は、何度も出てくるキーワードなのだが、筆者の意図をぼくが理解できたか不安が残っている。それでも看板のコピー文と合わせて読むと、なんとかわかる気がする。

■『晴球雨読』に照らして

 ぼくは4年前の68歳で現役を引退して、「ゴルフ」と「書くこと」を軸にした年金生活に入った。同時に開設した実名ブログサイト『晴球雨読』の副題は「ゴルフと本 ときどき 映画と街歩き」だ。この読書感想記もアップしている。

 仕事から離れたから「暇」はたっぷりとできた。問題は「退屈」だったが、これまでの4年は幸い、退屈せずに過ごすことができていると思う。

 この本の結論に照らすと、<2>の「衣食住や芸術・芸能を楽しめ」はゴルフへの熱中と本や映画鑑賞でカバーできているように思う。<3>の「思考の強制を体験する」はブログ執筆とサイト運営で体験できているのではないだろうか。

 期せずしてこの本は、「暇と退屈」をキーワードに「晴球雨読」の暮らしの意味をぼくなりに再整理し、あらためて定義づけてみる機会になった。手強いけど面白かった。難解だけど読んでよかった。

こんな文章も書いてます