異例ずくめ あふれ出る危機意識
(文春新書、2015年1月)
異例の書だ。別の新聞社に勤めるぼくにとっては、深刻な書でもある。朝日の最近の「ふたつの吉田問題」を中心に社内で何があったか、どんな検証がなされたか、根本的な問題は何かについて書かれている。
異例の第一は、中身は実名で書かれているが、筆者は「有志」、つまり匿名であることだ。OBひとりが文中で実名を明かす不思議な構成である。大半を現役記者かデスクが書き、一部をOBが実名執筆したらしい。
実名になるのは慰安婦問題に関する第3章。四分の三ほどきたところで突然、「実は私自身、今回の検証対象となった記事を書いている」と切り替わる。続けて「かつて一緒に仕事をしたて仲間を匿名で切り捨てることに、どうにも心の置き所が安定しない」と吐露した上で「辰濃哲郎」と記している。
この辰濃氏は2004年、私大医学部の補助金流用事件の取材で無断録音を行いそのテープが流出した騒動の責任を取って退社したとの経過も書く。
さらには1992年1月の記事「慰安所、軍関与示す資料」「防衛庁図書館に」は辰濃氏が書いたことも。政府が河野談話を出すきっかけになったスクープだ。しかし辰濃氏は、その記事の「とは書き」にある「挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万人ともいわれる」は間違いであり、別の記者の執筆だが、全責任は自分にあると痛恨の思いも記している。
本書では、社内の大事な話が週刊誌に流れ出ていくことについても触れ「自社に不利な情報でも社内抗争のためにリークする幹部がいる」と社内体質を問題視している。では、こうした内部告発の書を匿名で本にすることも根っこは同じではないのか。この本は「憂国の士」だからいいのだろうか。
異例の第二は、朝日の体質について「反日」「左翼」といった右派陣営からの批判はまったく的外れと言い切っていることだ。個々の記者レベルで見れば、改憲や増税の必要性を認める者のほうが多数派と断定もしている。
それよりも病根は「自分の出世ばかり考える官僚主義」「編集局内の政経社の縄張り意識と対立」「他紙を読まないか無視する独善主義」などにあるとする。
そうすると、朝日についてぼくが感じてきた「護憲」「リベラル」「反原発」「人権擁護」といった論調イメージも、それを求める層にあわせているだけで、病根の結果にすぎないとなる。本当にそんな薄っぺらなのだろうか。
異例の第三は、朝日が抱える病根がその通りだとして、いきなり「日本型経営の崩壊」につなげる展開だ。飛躍がすぎないだろうか。他業界を知らないので取材で得た感覚に過ぎないが、日本の大手企業はそれぞれに自己変革を遂げてきており「日本型」でくくれるほど旧態依然ではないし、かなり会社によって違いが出てきていると思う。
それでもあえて「日本型」に一般化するのなら「日本型新聞経営」の方がふさわしい気がする。本書で指摘する病根は、特定の社を除いて、日本の新聞社は似たり寄ったりだろう。出版する文春側には、朝日や新聞業界の固有問題ではなくもっと普遍的な問題だとした方が、インテリ層に広く読まれる、との判断もあった気がする。深読みがすぎるだろうか。
異例の第四は、第五章として「企業研究」編までついていることだ。ふたつの吉田問題という極めて編集に特化した議論もあれば、企業体質の事例もたくさん出てくる。その上で最後に経営指標分析まであるのだ。
ここまで読むと、ぼくは善意に解釈したい。この本の執筆を決断した有志の社員たちは、「匿名」という、ぼくに言わせれば禁じ手の手段を使ってでも、自分の新聞社を大きくて広い問題意識でとらえていること、立ち直るきっかけをつかみたいと思っているという心情と危機感を伝えたかったのだろう―。
いずれにしても、こんなに身近で、かつ深刻な内容の業界本は初めてだ。編集に残っていて読んだら、もっと重く受け止めていただろう。
新聞社の不動産担当の立場で読むと、第5章の「企業研究」が「盤石の優良不動産」に注目しているのが印象に残った。中の島ウエストタワーの資金繰りとテナント集めがカギとの指摘は、ぼくの見方とまったく同じだった。