草彅の澄んだ目 得体しれぬ情感
ぼくは「囲碁」に淡い憧れを抱きつつも経験しないまま古稀になった。けれどこの小説と映画で、「黒白と静寂の遊戯」が日本の風情や武士の矜持、さらにはゴルフと根っこで通じあっていると知った。草彅剛の演技力にも驚いた。澄んだ目の底に、なにか得体のしれない情感を感じてしまうのはぼくだけだろうか。
(小説=文春文庫、加藤正人、3月10日発刊 / 映画=白石和彌監督、5月17日公開)
■主役は「囲碁」 戦法語が鍵に
この作品の主役は、囲碁そのものだ。戦法を示す語が何度か出てきて、後の展開の大事な鍵になっていく。
たとえば「石の下」。主人公で元彦根藩の浪人、柳田格之進(草彅剛)が、吉原の妓楼の女将、お庚(小泉今日子)に詰め碁を教える場面でこう話す。
「石を取らせて、逆に相手の石を取るという手筋です。実戦でこの形になることはまずありませんが、覚えておいて損はありません」
(小説p34)
たとえば「星から打つ」。彦根藩で最強だった柴田兵庫(斎藤工)の「不思議な碁」について柳田がこんな回想をする。
囲碁は石の効率がいい四隅から打ち始められる。
(小説p127)
「打ち出しはヘボといえども小目なり」という川柳にあるように、星の一路横の小目から打ち始める。(中略)
ところが、兵庫は星から打ち始めた。
「石の下」も「星から打つ」も、碁に詳しい方ならすぐわかるのかもしれない。この物語のもとは古典落語との記事も読んだ。ぼくは囲碁を打ったことがなく、その落語も知らないので、初めて聞く戦法語だった。でも小説にはわかりやすい解説がついていたので、なんとかついていけたのだった。
■囲碁の「気品」 ゴルフに通じる
碁が大好きな商人、質屋兼両替屋の萬屋権兵衛(国村隼)がいい味を出している。碁会所で「姑息で品のない賭け碁」を打っていたが、格之進と対戦してから「正々堂々、嘘偽りのない碁」に目覚める。きっかけは格之進の次の言葉だった。
「囲碁というものは、味わい深いものです。勝負の奥底に、勝ち負けを越えたものがあります。芸というか品性というか…」
(小説p62)
「碁を打てば人間が磨かれます。自ずと気品が備わってくるものです。(中略)なりふり構わず品性を捨ててまで勝ちを貪るというのは、本末転倒のような気がしてならないのです」
なんと、ゴルフと一緒ではないか。ぼくは昨年末の文章「2023年の”する”ゴルフ」の最後で、次の目標をこう書いた。「品格あるプレーを目指そう」。碁と通じるものがあるとは…。
■白と黒 日本の風情
映画では、日本の風情を感じる場面も印象に残る。たとえば、格之進が権兵衛の屋敷を訪ね、和室で碁に熱中するところ。ふたりの真ん中に碁盤がおかれ、障子は開け放してある。その様子を箇条書きにしてみると―
- ふたりの男が黒系の袴をつけて正座
- 碁盤には19本の黒線が格子状にある
- 黒線の交差点に黒と白の石が交互に
- 障子の桟も縦の格子で紙も真っ白だ
美しい。しみじみと魅入ってしまった。
この対極が、格之進と娘のお絹(清原果耶)が暮らす貧乏長屋だ。九尺二間。日本の時代劇には欠かせない空間である。こちらも箇条書きにするとー
- 路地は狭くてどん詰まりになってる
- 障子紙は格子ごとにつぎはぎまだら
- 裸ろうそくがすきま風に揺れている
住んでみたいとは思わない。でもこの風情のなかで、武士の矜持を忘れず清貧に暮らす浪人と、気立てのいい娘のつましい暮らしを見ていると、郷愁がわいてくる。
■得体しれなさ 泥酔騒動を連想
草彅剛の演技を映画できちんと観たのは初めてだった。SMAPが2016年末で解散した後、俳優として実績を積んでいたのは知っていた。でも観たのは、NHKの2021年大河『青天を衝け』の徳川慶喜役と、ことし3月までのテレビ小説『ブギウギ』の羽鳥善一役だけ。どちらも大事な役だが、テレビだし主演ではなかった。
長くファンの視線にさらされてきた人気者なのに、演技を観た後にどこか余韻が残る。余白が多い、とも感じてきた。この映画でも、大事な場面で大写しの顔を凝視していると、澄んだ目の奥底に、なにかまったく別の、得体のしれない情感が漂っている気がした。
映画を見ながらぼくは、かつての泥酔騒動を思い出していた。後でネット検索すると、2009年4月23日未明、東京ミッドタウンわきの公園で、泥酔状態で全裸になって大声で叫んだり、木によじ登ったりして警察官が駆けつける騒ぎになった。
当時もだれもが知る人気者で、35歳になっていた。僕の印象は「人気に溺れない、真面目でしっかりした大人」だったから意外だった。衣服はたたんで置いてあったというエピソードも加わり、泥酔経験があるぼくは親近感を抱いたのを覚えている。
今回の映画で感じた、いい意味での「得体のしれない情感」は、15年前の泥酔騒動で見せた「はめを外してしまえる資質」と地続きに思えてしかたがない。どちらも人間臭く、しかも憎めない何か―。
■蘇る「大吉原展」 負の側面
この物語では吉原も大事な舞台になっている。妓楼の女将、お庚(小泉今日子)は格之進から碁を教えてもらっている。篆刻の仕事も発注し、お絹をかわいがっている。
目抜き通りの「仲の町」や、春の桜並木など豪華絢爛な街の様子は、映画でたっぷり描かれていく。4月2日に上野で『大吉原展』を観ていたから、あああれだ、とよくわかった。
注目は「負の側面」をどう扱うかだった。『大吉原展』では、前宣伝が、遊女たちは借金返済のため売春せざるをえなかったという歴史を無視していると”炎上”していた。
『碁盤斬り』では、お絹が吉原の妓楼を訪ねた日、遊女のひとりが逃げようとして捕まって連れ戻される場面が出てくる。お庚は折檻を命じた後、そばであっけにとられているお絹に語りかける。
「嫌なとこを見せちまったね」
(小説113p)
「ここは極楽みたいなところだけど、ひとつ裏に回れば地獄、因果な商売だよ」
■小説と映画 どちらが先か
この小説は映画公開の2か月前に発刊された。筆者の加藤正人氏は映画の脚本も書いている。つまり、加藤氏がまず脚本を書いた後に、映画は白石監督が撮り、それと並行して加藤氏が引き続き小説化を進めた、ということだろう。
よく似た進行と思われるのが、2012年の『あなたへ』だった。映画の脚本(青島武)をもとに、作家の森沢明夫氏が小説を書き下ろして2月に幻冬舎文庫から発刊された。映画は降籏康男監督が高倉健の主演で撮り、8月に公開された。
この『碁盤斬り』は、脚本を書いた加藤氏がそのまま小説も書いたところが『あなたへ』と違っている。
ただ『碁盤斬り』でも、小説には書いてあっても映画には出てこない場面や台詞や出来事がいくつもあった。脚本・小説家と映画監督が対話する中での判断だったろう。
原作と映画、どちらが先か―。ぼくの長年のテーマだ。名作とされる小説が先にある場合は、小説を先に読むべし、が持論だ。藤沢周平『蝉しぐれ』と、ケン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』ではその旨も印象記に書いている。
この『碁盤斬り』は、ぼくに碁の知識がなく、元の古典落語も知らなかったかったこともあり、先に小説を読んで正解だった。どちらを先にするかの最大の問題は、後で「小説を読む」か「映画を観る」前には結末を知ってしまっている、ことだ。それが問題でないと思う時は、これからも小説を先にしよう。