洗練と審美眼 ほんとに400年前?
(2025年6月7日、京都市西京区桂御園)
1970年代に建築学生だったぼくにとって桂離宮は”伝説”だった。1600年代初め、江戸初期の建造なのに、昭和8年に来日したドイツ人建築家B・タウトが『日本美の再発見』で、西欧が志向している建築機能美をすでに備えていると絶賛した―。でも実物を観る機会を逃したまま半世紀がすぎ、72歳にして初めて訪れると、400年前の公家や棟梁や庭師らの洗練と審美眼に驚愕し、しびれてしまった。

■あふれる魔力 5つに絞ると
いただいたパンフによると桂離宮は、八条宮の初代、智仁 ( としひと ) 親王が元和元年 (1615年) ごろに造営にとりかかり、二代の智忠 ( としただ ) 親王が寛文2年 (1662年) ごろに完成させた。
いまから400年も前である。それなのに、庭園のしつらいも、茶室や書院の意匠も、ぼくの予想や期待のはるか上をいく水準にあった。すみずみまで美意識が浸透している。惹きつける魔力は多彩だが、ぼくなりに5つに絞ってみた。
<雁行する数寄屋>
やっぱりまず「雁行」に目がいった。古書院→中書院→楽器の間→新御殿。美しい数寄屋の連なりを撮った写真は、学生時から何度も見てきた。説明にはいつも「雁行」の2文字があったからだ。

屋根は4棟とも杮(こけら)葺きで、ゆるやかな丸みをともなっていて雅だ。3か所で直角に交わりながら、奥へ奥へと連なっていく。明かり障子と床下の白壁も、屋根に沿って折れていく。支える黒柱はどれもか細いのに、ゆるぎないリズムを視覚に刻んでいる―。この心地よさ !


<写真②→③ ゆっくり歩きながら撮っていく。絶妙のシークエンス>
まさに雁の群れが空を舞うように。スマホで写真を撮りながらうなった。どこからどう撮っても絵になってしまう。なんなんだ、この完成度と快感は…。
<障子と市松の潔さ>
障子の美しさは、別棟の茶室でも際立っていた。開け放すと、四角形に切り取られた庭園と障子の格子が対になって、自然と人工美が心地よい緊張を生んでいる(写真④)。


<(左)写真④障子を開けると/ (右)写真⑤市松模様の斬新さ=ともに松琴亭>
こうくるかと息を呑んだのは、市松(いちまつ)模様だった(写真⑤)。松琴亭の床や襖には、濃い青と白が碁盤状に施されていた。
笑意軒の腰壁には、なんと斜めに線が入り、上は市松、下は金箔だった(写真⑥)。超現代的デザインに見えるけど、浮いてはいない。でも、ほんとに400年前の意匠なのだろうか。

<うねる苑路 変幻する視界>
苑路を歩いて行くと、すこし先へ進むだけで、視界も景色もがらりと変わっていくのに驚く。案内図(写真⑦)をみると、合点がいった。中央の池はかなり複雑な形をしている。




<▲写真⑨⑩ 茶室や松、岩、燈籠、橋が響きあっている。遠州好み?>
ぼくは作庭についての知識はほとんどない。でも小堀遠州の名だけは知っている。もしかしてとパンフを読んだらこんな解説があった。
作庭に当たり小堀遠州は直接関与していないとする説が有力であるが、庭園、建築ともに遠州好みの技法が随所に認められることから、遠州の影響を受けた工匠、造園師らの技と智仁親王及び智忠親王の趣味趣向が高い次元で一致して結実した成果であろう。
(案内パンフの「概説」から)
ぼくがこれまでに観た庭園で、桂と比較したくなったのは、昭和55(1970)年開館の足立美術館(島根県安来市)だった。2019年8月に訪れた。ここの庭は、波打つ小山を借景として、白砂と青松と柴山と池が巧みに配置され、剪定や落ち葉除去など徹底した管理がされていた。桂離宮を「静寂の墨絵」とするなら、足立は「鼓動の油絵」とでも対比できるだろうか。

<湾曲する土橋>
見学中には、池にかかる橋をいくつか渡った。あるいは近くで観た。どの橋も湾曲していて、真ん中がいちばん高くなっている。樹木や燈籠や岩や石と同じように、庭の一部として溶け込んでいた。



<写真⑪⑫⑬ いろんな橋が小島をつないでいく>
<混住する石岩 楷書と草書が握手>

散策していると、足元の石敷きにもいろんな意匠と工夫がこらされていることに気づいた。ここにも繊細な美意識を感じた。
もっとも有名なのは、離宮の玄関へと導く「真の飛び石」だろう(写真⑭)。今回の見学ルートのいちばん最後、気がつくと、その上にぼくたちは立っていた。
幅1.2mほどの細長い畳石が、書院玄関の石段まで斜めに伸びている。よくみると、長辺は両側の直線だけ。内側はさまざまな形の切り石が巧みに組み合わせてある。その横には、飛び石がいくつか配されている。
ほかにも、いろんな敷石が楽しませてくれる。どれも端正にして、暖かい。楷書と草書が握手している(写真⑮⑯⑰)。



<写真⑮外腰掛の延段(のべだん) ⑯洲浜と「天の橋立」⑰古書院から御輿寄へ>
■「桂+伊勢」vs「日光東照宮」
昭和8年に来日したドイツ人建築家のB・タウトは、日本の建築や寺社を観て回り、桂離宮と伊勢神宮に感激し、東照宮を装飾過多だと嫌った。つまり、日本の伝統的建築はもともと合理性と機能美を備えていた―。これが伝説か神話か、興味はあるが語れる知識はない。そこで手元の本や資料から抜き出してみると―
タウトは伊勢神宮や桂離宮などに見られる機能性と合理性が、とりもなおさず、西欧の近代建築が志向する原理と共通することを指摘し、日本の伝統建築の芸術性について、広く一般に啓蒙する役割を果たした。(中略)
しかしこれらの著作は皮肉にも軍国主義的風潮が支配していた偏狭なナショナリズムの高揚期とも重なりながら、建築界以外の広いインテリ層も読者として獲得し、戦時体制の精神形成に協力する結果となって行ったのである。
(新建築社1975年刊『日本近代建築史再考』所収、近江栄『日本的独自性の模索・喪失・回復』から)
作家の横山秀夫は、タウトが日本に残した家具をテーマにした小説『ノースライト』で、新聞記者にこう語らせている。
「日本の近代工芸の発展に与えたタウトの影響と功績ははかり知りませんよ。その一方でタウトは日本各地を訪ね歩いて、桂離宮や伊勢神宮、白川郷といった日本美を再発見して西欧諸国に知らしめた」
(横山秀夫の2006年刊『ノースライト』からP138)
桂離宮で売られていた解説本は、東照宮との比較に触れている。
桂離宮と比肩される建築に日光東照宮がある。同時代に建造された両者の対照的な様式美の違いは、桂離宮が公家社会における高い文化的教養に裏打ちされ、洗練された精神的機能美を追及したのに対し、東照宮は徳川家康を祀ることによって当時の幕府の権勢を誇示せんと、多大な経費と労力を注ぎこんで豪壮絢爛な色彩美を追求した点に求められよう。
(伝統文化保存協会発行「桂離宮」2024年改訂版、石川忠・元宮内庁京都事務所長のまえがきから)
日光東照宮は2015年5月に訪ねた。たしかに「豪壮絢爛な色彩美」に覆われていて、タウトが装飾過多と毛嫌いしたのは分かる気がした(写真⑱⑲)。その時点では桂離宮を観ていなかったから、気がした、という程度だったのを思い出す。


<写真⑱⑲ 豪華な装飾をまとった東照宮=2015年5月、団野撮影>
■「いつでも行ける」と半世紀
ぼくは京都府北部の舞鶴で生まれ育った。名古屋の大学に入ってからは、帰省する際は何度も京都に途中下車したが、高校同窓生の下宿先に転がり込んで酒盛りや麻雀を繰り返しているうちに、桂離宮へ行く機会を逃した。「いつでも行ける」の思いもあった。
記者仲間に会うため京都へ
新聞社に入り1979年に富山に赴任すると、やはり新人記者だったS君(毎日)とK君(日経)と仲良くなった。今回、久しぶりにS君が住む京都で会うことになり、K君が午前中は奈良か京都の国宝展を観てくるというので刺激され、桂離宮が浮かんだ。すぐ宮内庁にネット予約をし、7日朝いちばんに妻と出かけたのだった。
見学は午前10時すぎから1時間ほど。15人ほどがひとつのグループとなり、中央池の周囲をまわる苑路にそって散策していった。ところどころで立ち止まり、男性ガイドさんが解説してくれた。写真はOKだったので、85枚も撮ってしまった。
なぜ国宝ではないのだろう
そのあと吉田神社へ移動し、S君、K君と合流した。K君が奈良で観てきた「超国宝展」の図録を見せてもらいながら、ふと思った。桂離宮は江戸初期の造営で、あれだけの完璧な日本美を保っているのに、なぜ国宝でも重文でもないのだろう? 明治になってから建てられた建物でも、富岡製糸場(群馬)や開智学校(長野)は国宝になっているのに―。
桂離宮は、江戸初期に造営した八条宮家が明治14年に12代で途絶えたため、明治16年から宮内庁の所管になった。国宝や重文を所管するのは文化庁だ。皇室を支える誇り高き宮内庁が、文化庁にあれこれ指図されるのが嫌だからかなあ―。そんな要素もあるとすれば、なんとも人間臭い。午前中に見た”完璧な美”がすこし温かみを帯びてくる気がした。