1 ゴルフ 白球と戯れる

ゴルファー白洲次郎のプリンシプル…『武相荘』の手書き文字

Tシャツに「PLAY FAST」 木札にスイング理論 

(東京都町田市、2023年11月3日)

 白洲次郎(1902-1985)と正子が暮らした古民家「武相荘」を3日に訪れ、次郎が趣味だったゴルフに関する手書き文字の遺品を観て、”ゴルファー次郎”のプリンシプル(信条)に触れることができた。「PLAY FAST」のスローガンを手書きし、軽井沢ゴルフ倶楽部のTシャツにプリントしていたのにはびっくり。スイングで守りたい6項目を木札にマジックで書き、自身のバッグにしのばせていた。わかるなあ。

<▲左=武相荘の外観 ▲右=次郎の手書き文字>

■Barの名も「PLAY FAST」

 小田急線の鶴川駅からバスで2駅。小高い里山の中腹に「武相荘」はある。入り口横の案内図を見て、うれしくなった。正門を入った右の建物が「Bar & Gallery  “Play Fast”」だったからだ。

 ぼくは昨年2月に「プレーは『ファースト』か『ファスト』か」という文章を書いた。英語の日本語表記をめぐる変遷と混乱をまとめ、このサイトにアップしていたから「play fast」には敏感だった。


 さっそく階段を上がってBARに入ると、左の一番奥にゴルフ関係の遺品が展示されていた。真ん中の白い画用紙には「Play Fast  Jiro Shirasu」と書いてある。

 白洲夫妻の娘婿、牧山圭男氏が書いた『白洲家の日々』によると、次郎はスロープレーを嫌っていた。「Play Fast」と書いたTシャッを作って軽井沢ゴルフ倶楽部で売ることになり、次郎がいろんな書体で紙に書いたという。


 この手書き文字をプリントしたTシャツは、ショップで売られていた。武相荘のHPには、こんな説明がついている。

 軽井沢ゴルフ倶楽部ほどの名門ならば、服装に厳しいのが当たり前。ところが理事長だった次郎は「リゾートで気取ることはない、クラブTシャツでラウンドしてよし」と宣言。
 売り出されたTシャツを見れば、次郎の勢いのある字で「play fast(さっさとやれ)」とプリントされていました。

 カッコ内の日本訳(さっさとやれ)には一瞬、目が点になった。しかし口で繰り返すうちに、にんまりした。うん、これ名訳かもしれない。ゴルフ以外の流儀やプリンシプル(信条)も包含したニュアンスがにじみ出ている気がする。

■スイング理論を木札に

 もうひとつの驚きとなった木札は、縦6センチ、幅12センチほど。木肌に直接、マジックペンで6項目が書いてある。次郎がスイングするときのチェックすべき点を箇条書きしたらしい。

  1. UPはゆっくり。
  2. TOPでと(止)めろ。
  3. 左肩をあごの下まで。
  4. 右足で突っぱれ。
  5. 左腰を真(っ)すぐ、後ろに。
  6. TOPで力をぬ(抜)け。


 展示の前でぼくは6項目を唱えながら、何度もスィングのまねごとをしてみた。理にかなっている気がする。ただ繰り返すうちに、5番に「?」がついた。これはTOPからDOWNに移る時の注意点ではないか。となると6番は上半身の力をTOPでは抜いてから振っていけという意味か—。残念ながら、真意を確かめる手段はない。

 先の『白洲家の日々』によると、この木札は、次郎が普段使っていたキャディーバッグの中から出てきた。白洲次郎がゴルフを覚えたのは戦前の英国留学中だとぼくは思い込んでいたが、この本によると、次郎が始めたのは「28歳ぐらいから」で、ハンディキャップは「7か8をキープしていた」という。

■流麗なるスイング写真

 BARの中でぼくは、次郎の実際のスイング写真が無性に見たくなった。武相荘の母屋を改装したミュージアムで展示品をくまなく観たけれど、総じてゴルフ関連の展示は少なく、写真を見つけることはできなかった。

 そこでショップにあった関連書籍やHPをあたってみると、2枚見つかった。『白洲次郎の流儀』(新潮社)の54ページと、武相荘HPの経歴紹介にスイング写真があった。


 力強く、流麗である。頭とあごが動いていない。しっかりと左足に体重が乗っている。バランスを崩さずに振り切れている。

 この写真の次郎は50歳くらいだろうか。とすると撮影は1952年ごろになる。いまから70年前、パーシモンの時代だけれど、古さをまったく感じない。

■溢れるダンディズム

 白洲次郎と正子という夫妻の凄さを最初に実感したのは、2005年3月に展覧会『白洲正子とその世界』を名古屋で観た時だった。次郎についての展示もあり、印象記には「次郎のカッコよさも時代を飛び越えている」と書いた。

 これがきっかけになり、2006年11月に伝記『白洲次郎 占領を背負った男』を読み、印象記を書いた。自分でつけた見出しは—

戦前超エリート層が生んだ快男児のまぶしさ

 次郎は1902(明治35)年に神戸の資産家の家に生まれ、大正時代に若くして英国に留学した。戦後に吉田茂に請われGHQとの折衝や日本国憲法の制定に奔走した。

 だれにでも言いたいことを言える骨太さや、プリンシプル(信条)を貫く芯の太さから、GHQに「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。


 政治家にはならず、官職にもつかず、多くの会社経営に関わって在野で通した。鶴川村(現町田市)の古い民家に居を構え、趣味の外車やゴルフや大工に熱中した。その生き方やたたずまいはダンディズムにあふれ、甘いマスクと抜群のお洒落センスでも知られた。「葬式無用 戒名不用」の遺言はあまりにも有名だ。

 そんな次郎のダンディズムは、やはりゴルフにも漂っていた。ゴルフは、その人の生き方や信条を見事に映し出す球戯なのだ、とあらためて感じている。

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