8 街歩き 建築を味わう

金沢に移転した『国立工芸館』

皇居から兼六園へ  レトロ建築を連結再生

 (金沢・文化の森、2020年10月開館)

  皇居から金沢の兼六園わきに移転した国立工芸館を観てきた。旧陸軍のレトロ建築2棟を移築して巧みに連結再生し「日本海側で初の国立美術館」が誕生していた。百万石の遺産とモダン建築が響きあうこの街は、街出身の建築家、谷口吉郎氏(1904~1979)と長男・吉生氏(1937~)の存在も追い風にして「ハイブリッドな城下町」へと変貌し続けている。

<▲皇居わきから移転し昨秋に開館した国立工芸館=金沢・兼六園文化の森で団野撮影>

もとは陸軍の司令部と社交場

■ともに明治の有形文化財

<▲手前が管理棟>

 21世紀美術館のわきの坂道を登っていくと、高台の広場に2階建ての洋風建築が並んでいた。真ん中の鉄骨の庇に「国立工芸館」とある。

 どちらの建物も明治後期に、こことは別の金沢市内に建てられ陸軍の施設である。左側は1898(明治31)年の第九師団司令部、右は1909(明治42)年の将校社交場だった。

 戦後は別の用途に転用されながら生きながらえ、1997年には国登録有形文化財に登録されていた。金沢に工芸館を持ってくるための建物としてこの2棟が選ばれここに移築されてきた。ともに2度目の移転になる。

<▲展示棟の内部>

 移転させてきた2棟を連結して誕生した工芸館は、司令部が展示棟、社交場が管理棟になっていた。

 5月5日に訪れると開館記念展の第3弾『近代工芸と茶の湯のうつわ―四季のしつらい』が開かれていた。荒川豊蔵や加藤唐九郎の志野茶碗、松田権六の蒔絵など日本近代の至高の工芸品が並んでいる。

<▲展示棟の階段>

 展示室の一角には名誉館長に就任した中田英寿氏の長めのメッセージも掲示してあった。その一節は「工芸とは何だろう? 美とは?  それを今、問いたい」。元サッカー選手のヒデらしい、まっすぐで回転のきれいな「足元パス」である。

■強引な連結 だけど統一感

 ふたつの明治洋風建築を正面から眺めていると不思議な感覚にとらわれた。100年以上もたっているのにその年月を感じない。司令部と社交場という異なる用途の建物を移転させてきた上に強引に連結させているのに、違和感が生じてこない。

<▲建設時からここに建っていたように見える>

 ともに木造の2階建てで大きさもほぼ同じだ。しかも左右対称で真ん中には出っ張り玄関がある。縦長の窓と配置リズム、屋根の形や破風も似ている。考えてみれば当然か。当時の洋風意匠言語は限られ、陸軍の強力磁場の中で軍人設計士の裁量も狭かっただろう。

 さらに今回の移転と工芸館への転用に伴い、石川県と金沢市は一度撤去した部分を復元し、外壁や窓枠の色はていねいに塗り直した。2棟をつなぐ新玄関も鉄とガラスによる現代的な意匠だが主張は控え目だ。

 それらが複合して、強引ともいえる”ペアリング”にいい意味での「統一感」をもたらしているのだろう。

■地方創世が契機 日本海側で初の国立美術館へ

 この移転のもうひとつの特色は「地方創世」の一環ということだ。

 地方創世は2014年の安倍改造内閣の目玉政策だった。メニューに「政府機関の地方移転」が入っていて、そのとき日本に6つあった国立美術館も対象となった。出た結論が、東京国立近代美術館の分館、工芸館を金沢に移転させることだった。

<▲東京国立近代美術館=HPから>

 日本の国立美術館6つのうち4つは東京にあり、世界遺産になった「国立西洋美術館」と、2007年開館の「国立新美術館」がよく知られている。
 あとのふたつは京都の「京都国立近代美術館」と大阪の「国立国際美術館」だった。金沢にできた工芸館は「日本海側で初めての国立美術館」となった。

 本館の東京国立近代美術館は皇居わきの北の丸公園にある。いまの建物は1969(昭和44)年に竣工した。設計が吉郎氏だった。モダンで端正な建物に横山大観や菱田春草ら近代美術1万3000点が収蔵されている。

■工芸館と旧近衛師団司令部

<▲旧近衛師団司令部=千代田区HPから>

 工芸館は1977(昭和52)年、本館近くの旧近衛師団司令部庁舎を改修した後に「分館」として開設された。

 近衛師団は皇居警備が職務で陸軍でも別格の存在だった。司令部は1910(明治43)年に皇居の北に建てられ、赤レンガとゴシック様式の壮麗さが際立っていた。

 昭和20年8月15日の玉音放送ドキュメント「日本のいちばん長い日」にも登場する重要な歴史遺産でもある。

■吉郎氏が幾重にも関与

 この旧近衛師団司令部は1960年代後半に解体計画が持ち上がったが、明治洋風建築の典型としての評価が高く、先頭に立って保存を唱えたのが吉郎氏だった。1972(昭和47)年に重要文化財としての保存が決まり工芸館が入る前の改修も吉郎氏が設計した。つまり吉郎氏は工芸館に関し幾重にも建築家として関わっていた。

 今回の移転は、対象が工芸館と決まってから候補地を探したのか、金沢には伝統工芸と旧陸軍文化財建物が残っていたのが先だったのか—。吉郎氏が金沢出身で、街づくりにも積極的に関与していたことが大きな決め手になったことは間違いないだろう。

 ぼくが建築を学んでいた1970年代前半には吉郎氏は「モダニズム建築の大御所」だった。さらに洋風建築の保存に熱心なことでも著名だった。旧制四高の同窓生だった土川元夫氏(名古屋鉄道の社長・会長)と明治村の創設に奔走した功績は、ぼくが新聞記者になってからも多くの関係者から聞いた。

■陸軍の施設が6棟も

 この工芸館の周囲も回ってみて驚いたことがもうひとつ。陸軍施設だった6棟がこの一角に集うことになったことだ。南側から並べるとこうなる。

<▲バンフから>
  • 陸軍兵器庫の3棟 → いしかわ赤レンガミュージアム
  • 第九師団司令部社交場 → 連結して国立工芸館
  • 第九師団長官舎 → 石川県立美術館広坂別館

 兵器庫だった3棟は赤レンガをまとい国重要文化財に指定されている。戦後は1972(昭和47)まで金沢美術工芸大の校舎に使われていた。兵器庫→美大キャンパス→博物館。なんとも劇的で金沢らしい転用ではないか。

 このように石川県や金沢市は歴史的建造物を積極的に再生してきた。吉郎氏という助言者とともに担当者がノウハウを集積してきたことが、今回の「国立美術館の移転」でも発揮されたというべきだろう。

ハイブリッドな城下町へ

■「21美」が異次元の刺激

<▲パンフから>

 金沢の街は戦災を免れたため、百万石時代から戦前までの古い建物がたくさん残っている。しかし今世紀になってからは、大胆に現代建築を取り込んできたことも見逃せない。

 その代表が金沢21世紀美術館(2004年、SANAA)だったろう。香林坊から兼六園にかけてのレトロ建築群のすぐわきに、過去とはまったく違う次元の意匠言語によって衝撃と吸引力を持ち込んだ。

 市民にはこのデザインについていまも賛否あると聞く。ただ新たな「金沢の顔」になったのは疑いようがないだろう。金沢海みらい図書館 (2011年、シーラカンスK&H)もこの流れを引き継いでいる。

■吉生氏の存在感

<▲鈴木大拙館=パンフから>

 吉郎氏の長男、吉生氏は豊田市美術館(1995年)やニューヨーク近代美術館(MoMA、2004年)を訪れてから知った。「端正で知的なリリシズム」に仰天したのを覚えている。東京での展覧会『谷口吉生のミュージアム』(2005年)を観てからは、父・吉郎氏の「遺産」を「継承」していると実感することになった。

 21世紀美術館ができた後には、金沢でも吉生氏が設計した建築に接することができるようになった。鈴木大拙館(2011年)では、水鏡と白い壁の対比が「凛々しい静寂」を生んでいた。加賀片山津温泉・総湯(2012年)では”初体験の湯加減”にびっくりした。「国際的建築家が銭湯を設計すると、こんな動線と眺望になるのか」と。

<▲谷口吉郎・吉生記念館=団野撮影>

 極めつけは2019年の谷口吉郎・吉生記念館(2019年)だった。お寺がたくさん立ち並ぶ界隈の真ん中、吉郎氏の生家跡に吉生氏の設計で建設された。吉郎氏の代表作「赤坂離宮別館の広間と茶室」が再現され、吉生氏流に水庭も配されていた。

 吉郎氏が金沢市に「保存と開発の調和」を提案し、それが日本で初めての景観保護条例につながったことや、吉郎氏が金沢市の名誉市民の第1号であることもここで知った。

 父の吉郎氏は、生まれ故郷に「遺産の継承、保存と調和」の大切さとノウハウをもたらした。息子の吉生氏は父のDNAと「21美」の衝撃を受け継ぎつつ、より洗練された形で「ハイブリッド城下町への流れ」を先導しているとぼくは感じる。

■金沢と名古屋 戦災と遺産

 金沢はぼくの妻の両親の出身地であり、妻も中学の3年間を過ごした街である。親戚の大半も金沢や周辺にお住まいだから、法事などで名古屋から何度も夫婦で訪れてきた。

 さらには新聞社での仕事が不動産の管理・活用に変わってからは、出張で金沢を訪れることも増えた。そのたびに時間があれば、レトロ建築と現代建築の両方を訪ねるのが大きな楽しみになった。

 今回もコロナ禍ではあったが、親戚の葬儀に出るため5月連休中に金沢に車で行き、どうしても見たかった工芸館を訪れたのだった。

 ぼくが学生時代から住んでいる名古屋は昭和20年の米軍空襲で都心部は焼き尽くされ、城下町の最大のシンボルだった天守閣も本丸御殿も燃えてしまった。明治時代の洋館も残っているものは多くない。

 都市を歩くときぼくはどうしても街づくりの作法とか、どれだけ面白い建築があるかという視点で観てしまう。

 金沢には江戸や明治の遺産とその活用例がたくさん残り、谷口父子の援助や現代建物にも恵まれている。その輝きを今回の工芸館訪問でも感じた。同じように戦災を免れた京都は寺社と公家さんの街だ。金沢には百万石の武士の城下町にしかできないハイブリッド化を見たい。羨望の想いは飲み込みながら。

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