5 映画 銀幕に酔う

疼く悔恨 贖罪もとめ 定年男は歩く…英映画『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』

北へ600km 癒やしのロードムービー

 大好きな英国が舞台で、ぼくと同じように定年退職して妻と暮らす男が主役である。死の淵にいる元同僚に逢うため600kmも離れた街へ歩いていくロードムービーと知り、日本公開の翌日に観た。街並みの落ち着き、郊外丘陵地の整然さにうっとりしているうちに、男がかかえこんできた深い悔恨と贖罪の念が浮かび上がってくる。苦しみは歩くことで癒すことができるのか…。美しく、渋く、重い。

 (ヘティ・マクドナルド監督、2024年6月7日公開、MOVIX三好)

■「英国」「定年」「縦断」

 この映画の公開は6月7日(金)だった。前日6日の中日新聞夕刊を見て驚いた。最終面に大型の映画広告が載っていて、英国ツアー旅行との組み合わせだったから。

 「映画館から美しいイギリスへ」。旅行広告にある名所はほぼ行ったことがあるけれど、映画はもちろん観ていない。これはすぐ観たい。キーワードは3つだった。

 舞台は英国 これまでに訪れた海外諸国でいちばん好きな国だ。ゴルフとビートルズを生み、古い街並みにパブが溶け込み、なにごとにも諧謔と屈折が潜んでいる。

 主役は定年退職男 ぼくも4年前に退職し、映画と同じように、妻とふたり暮らしだ。たっぷりと時間があり、過去の人生を振り返ることも増えてきた。

 徒歩縦断のロードムービー 男が南から北へ徒歩で縦断していく。映像には、道路沿いの街並みや郊外の丘陵地が出てきて、自然と人間の手が融合した英国的な整合美を愉しめるはずだ。

 公開翌日の8日に妻と観た。3つの期待は裏切られなかった。ゴルフもビートルズも出てこなかったけれど、ありあまる吸引力があった。

■歩きと回想が交錯

 吸引力の最大は、男が歩きながら、野営しながら、過去を回想する場面だ。かかえこんできた悔恨の念が浮かび上がってくる。ネタバレになるのでこれ以上は書けないけれど、ぼくならとても耐えられそうもない苦しみを、男と妻は25年も心中に溜め込んできた。

 男はビール会社を定年退職し、妻とふたりで暮らすことになったが、悔恨に苛まれる苦しみをより強く感じる日々だったに違いない。元同僚からきた手紙がきっかけとなって、その苦しみが心の中であふれ出す。返事を書いたが投函できない。次のポストへ、さらには次のポストへと、妻を家に残したまま、歩き出してしまう。

 歩くことで、悔恨を受け止められるようになれるか―。贖罪につながるか―。それが主題だろう。どの国の家庭にも夫婦にも、外からはわからない悩みがあるはずだ。主人公の行為をどう受け止めるかは、観客それぞれの生い立ちや悔恨の大きさ、夫と妻の関係で変わるだろう。

■ロードムービーが描く「多様な日常」

<▲”支援者”に囲まれて=公式HPから>

 もうひとつの吸引力は、英国の人々の暮らしの多様な日常や、そこにある悩みや問題が、自然に織り込まれていることだった。

 人種の多様性 男の家の隣人は、妻を亡くした黒人で、真摯に相談に乗ってくれる。旅の途中で、豆だらけの足を治療してくれたスロバキアの女性医師は「英国では清掃婦の仕事しかない」と打ち明ける。

 悩みいろいろ ある街の駅カフェで向かい合わせになった白人男性から少年愛の悩みを打ち明けられる。徒歩縦断に同行してきた少年は、克服したはずの悪弊をさらけ出してしまう。どちらも英国の現代社会では珍しくないのだろう。

 街頭行動の自由さ 主人公の徒歩縦断が新聞やテレビで報道されると、老若男女が集まってきて、プラカードを掲げて男とともに歩き、夜はともに野宿する。日本ではちょっと想像しづらい。

 外さないネクタイ ロナルドは手紙の投函のためだけなのにネクタイをして外出した。歩き始めても外さない。支援者と歩く時は”制服”の赤いTシャツを着たが、ひとり旅に戻ると、汗みどろなのにネクタイ姿に戻った。英国紳士の象徴なのだろうか。 

 これらがごく自然に混在している。何があっても自然に見える、ロードムービーならではの融合、といっていいだろう。

■原題は「Pilgrimage」

<▲ルート図=HPから>

 この映画の原題は、劇場の大画面で知った。

 『The Unlikely Pilgrimage of HEROLD FRY』 

 「Pilgrimage」という単語は知らなかった。後で辞書を引いて「巡礼の旅」と知った。映画の中では、主人公の徒歩縦断を伝える新聞の見出しがこれだった。さらに映画では、支援者たちが作ったTシャツの胸文字に「PILGRIME」(巡礼者)が出てくる。

 日本で巡礼といえば四国のお遍路がもっとも有名だろう。現代はさらに、映画やアニメに登場した場所を訪ねる”聖地巡礼”も広がっている。

 ぼくも、井上誠一設計のゴルフコースに強い興味があり、体験記を「巡礼 井上誠一」と名づけて4本を収録し、井上誠一のタグをつけている。

■初期邦題『思いもよらない巡礼の旅』

<▲原作の初期表紙=amazon>

 原作は英国の脚本家レイチェル・ジョイスが2012年に書いた初の小説だった。日本では『ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅』の邦題で発売され、2014年の本屋大賞翻訳小説部門で2位になった。37か国で翻訳され累計600万部が売れた、という。

 講談社がことし5月、映画化にあわせて出した文庫の改訂版から、題名は映画と同じ『…まさかの旅立ち』に改題されている。原作は読んでいないけれど、日本語の「巡礼」には聖地をめぐりつつ目的地を目指す感じが強い。映画の「目的地」は元同僚がいる北の街で、途中に”聖地”といえる場所は出てこない。

 それに巡礼というと、それなりの準備が必要な感じがある。主人公は車も飛行機も鉄道もバスも使わず、いきなり歩き出す。携帯電話は家に残し、カードや時計も途中から家に郵送してしまう。そんな流れからも『思いもよらない巡礼』より『まさかの旅立ち』の方がふさわしい、という判断が映画会社と出版社にあった気がする。

■渋いブロードベント 日本ならだれ?

<▲ジム・ブロードバンド=公式HPから>

 ハロルド役の主役、ジム・ブロードベントが、なんとも渋い。映画を観ながらどこかで見た顔だなあと、と思った。帰宅後にネット検索したら、2011年に観た英国映画『アイアン・レディー』で、英首相サッチャーの夫デニスを演じていた、と知った。1949年生まれだから、ことし75歳、ぼくより3つ上。うーん、なるほど。

 舞台が日本だったら、ハロルドはだれが演じるとはまるだろう。映画を観ながらすぐ浮かんだのは高倉健だった。『あなたへ』も『幸福の黄色いハンカチ』もロードムービーの傑作だった。ちょっとカッコ良すぎる、かもしれない。

 いっしょに観た妻とも帰宅後、いろいろ想像しあった。出てきた名前は国村隼、前田吟、渡辺謙、役所広司…。うーん、だれが演じてもそれぞれの味が出そう。その際の妻の役はだれ? 悔恨の出来事はどんな設定に? 巡礼はどこからどこへ?  日本の映画関係者にリメイク版を考えている人はいるだろうか。

■人生の哀歓つむぐ伝統

 英国を舞台にした映画は、2011年の『アイアン・レディ』のほかにもいくつか観てきた。007シリーズを例外として、派手さを抑え、人生の哀歓や歴史の深部を描く作品が多い。これまで印象記を書いた作品と年月、自分でつけた見出しを新しい順に再掲すると―

『生きる LIVING』 2023年4月
「悔い亡き末期」への渇望 湿り気が洗練へ昇華

『ウィンストン・チャーチル』2019年1月
 型破り首相の決断 決められない今への嫌味?

『ボヘミアン ラプソディー』2018年11月
 そうか 単に食わず嫌いだったんだ

『ロンドン、人生はじめます』2018年5月
 高級住宅地の森 熟年男女の人生模様

『英国王のスピーチ』2011年3月
 吃音の苦しさと克服 最後にカタルシス

『クイーン』2007年11月
 ダイアナ事故死 女王と首相の駆け引き

 ぼくは年齢を重ねるごとに、米国ハリウッドの特撮映画やアクション映画には魅力を感じなくなってきた。英国はこれからも、地味ながら人生の機微をじっくりと描く作品を生み出してくれるだろうか。