2 小説 物語に浸る

国際金融とネットのハグ… あの橘玲が小説『HACK』で侵入していく!

 <▲書籍広告=2025年10月25日付朝日新聞>

バンコク舞台 底に抒情たっぷり

 あの冷静なリアリストが書いた小説を、15冊目にして初めて読んだ。ネットとパソコンとスマホの進化に伴い、カネもヒトも国も人種もすさまじい速さで流動し、いろんな思惑が国際金融と諜報戦の裏に忍びこみ、ビジネスと犯罪のはざまをハッカーが侵入していく―。描写はリアルで、冷徹な筆は変わらない。でも小説だからだろう、舞台はぼくが3年暮らしたバンコクであるうえ、これまでの評論では感じたことがなかった抒情が物語の底にたっぷりと漂っていた。
 (幻冬舎、2025年10月20日発刊)

■現代の事件つぎつぎリアルに

<▲カバーなし表紙>

 出てくる場面や用語は、いま世界のあちこちで起きている生事件のオンパレードだ。ここでも新聞社時代を思い出す。

 (犯罪系) トクリュウ / 特殊詐偽 / ランサムウェア
 (金融系) ビットコイン / 暗号資産 / マネーロンダリング
 (ネット) ハッキング / バグ / 秘匿性の高い通信ソフト
 (諜 報) 公安 / 検察 / CIA / M5
 (裏社会) 宗教2世 / ヤクザ / 大麻 / 薬物
 (国 家) タイ / ミャンマー / カンボジア / 北朝鮮

 筆者はそれぞれに的確な解説を加え、リアリティを感じさせながら、物語を進めていく。

■中核はハッキング「ここまでやれる?」

<▲装丁もクール>

 中核をなすのが通信やネットの専門用語だ。題名の『HACK』は「コンピューターシステムに不法に侵入する」という意味だから生命線といっていい。

 正直いうと、登場人物たちが駆使するネット接続やハッキングの専門用語に、ぼくはついてはいけなかった。「ここまでやれるのか? おれのPCもスマホも中身はすぐに筒抜けだ」と驚くばかりだった。

 彼らは通信手段の秘匿性にこだわる。データをこまめに消したり、流出しないサーバーに入れたりもする。ぼくは「そこまで気を使うのか」と、ため息をついていた。

■周到に準備 リアルさに自負

 マネーロンダリングやハッキングの仕組みと手口を読みながら、小説巻頭の”おことわり”にこうあったのも思い出していた。

  本書で描かれるクリプト(暗号資産)を利用したマネーロンダリングや租税回避の手法はあくまで筆者の想像上のものであり、税法およびその他の法律に関する記述は私的見解である。
 (巻頭)

<▲カバーの筆者略歴。顔写真はやはり、ない>

 すべてを読み終わり、巻末の参考文献を眺めつつ、こう思った。
 筆者は徹底的に関係本や資料を読みこみ、関係者にも裏話をたくさん聴いたのだろう。デビュー小説を含めて「マネーロンダリング3部作」をすでに書いている。その3作をぼくは読んではいないが、マネーロンダリングにもっとも詳しい作家との自負が筆者にあるだろう。おことわりの「私的見解」には、その矜持も感じる。

 筆者は2016年刊のベストセラー『言ってはいけない』のまえがきで、こう断言している。
 「この本にかかれていることにはすべてエビデンス(証拠)がある」―。

■懐かしのバンコク

 小説は3章にわかれ、1章と3章の舞台は、なんとタイの首都バンコクだった。この街にぼくは1998年8月から丸3年、特派員として駐在した。

 小説は2024年9月のバンコクから始まる。主人公樹生(たつき、30歳)がでかけていく場所を読むたびに「ああ、あそこだ」と25年前の記憶がよみがえった。

 (繁華街) カオサン / ヤワラー / マーブンクロンセンター / パッポン・タニヤ / ルンピニ / スクンビット
 (ホテル) スコータイ / オリエンタル
 (乗り物) ツクツク / バイクタクシー / BTS

 元タレントの咲桜(さら、36歳)も、日本での不倫関係が大騒動になり、5年前からバンコクで暮らしている。樹生が小6の時、写真を見てひと目で好きになった女性だ。一緒に食べ歩く場面では、現地料理がつぎつぎ出てくる。路上の屋台めしから伝統的な宮廷料理、イサーン料理まで…。

 筆者はその料理たちを見た目も味も詳しく描いていく。だからぼくも当時の味を思い出すことができた。こうしたリアリティも筆者が明確に意図した世界だろう。

■「没落した日本」に容赦なく

<▲惹句も「没落した日本=令和の冒険小説だ」>

 でも、そんな郷愁も、ぼくが駐在したのが25年も前だったからなのかもしれない。「失われた30年」で日本経済は低迷し、相対的な国力は低下し、円も弱くなった。

 その象徴として小説には、樹生がカオサンで知りあった「沈没男」がでてくる。日本で汚い金を稼ぎ、逮捕前にタイに逃れてきた。大麻と女に溺れて暮らすうちに落ちぶれ、いまでは借金取りに追われている。

 筆者は「沈没男」をこう書く。

  樹生の前には、日本がゆたかだった時代の幻想にしがみつき、「貧乏な東南アジア」をバカにしている哀れな日本人がいた。いまやタイ人のほうが自分よりゆたかになったことを認められないのだ。
  それは、中国にGDPで大きく引き離され、国民のゆたかさを示す1人あたりGDPでも、香港やシンガポールはもちろん、台湾や韓国にも抜かれて「アジアでは一番」という自尊感情を踏みにじられ、排外主義になぐさめを見出す日本社会の戯画のようでもあった。
 (P392)

 この容赦のなさこそ、ぼくがこれまで読んできた橘玲の筆だ。きれいごとやたてまえを嫌う、冷静なリアリスト。ぼくは25年前に「豊かなニッポン」を肌身で感じた身だから、いらだちも悔しさも痛いほど伝わってくる。

■縦軸に抒情 疎外感を共有

 そんな冷静なリアリストの筆者は、しかし、小説だからだろうか、物語の土台にたっぷりと抒情も漂わせてくれていた。樹生と咲桜がこころを通わせていく過程だ。しかし安っぽい恋愛物語ではない。

 わたしは級友とおおきく違っている
 ぼくは仲間の輪とは何かずれている

 樹生も咲桜も、幼いころからこんな感覚を心に隠しもって生きてきた―。ふたりは、相手が同じような疎外感を社会に感じていることがわかるようになり、すこしずつ確かめあっていく。とても繊細な、感情のひだの連なり。それを筆者は丹念に積み重ねていく。

 その象徴は、書き出しと末尾の文章の違いに現れている。書き出しはこの1文だけ。まさに小説の主題だ。

 世界はHACKされるのを待っているバグだらけのシステムだ
 (書き出し)

 それが巻末には、上と同じ1文の後に、次の1文が書き加えられている。

 だがそこには、どれほど望んでも触れることができないものがある
 (巻末に追加された一文)

 この文章の引用は、広告にもカバーにもない。ぼくはこう解釈している。そしてこれが第二の主題なのだと。

 生身の人間の心には、どんな手練れのハッカーがHACKしようとしても侵入できない領域が、かならずある―

■15冊目が初の小説 抒情にほっ

 橘玲氏の著作はこれまでに14冊読み、どれも評論か随筆だった。このサイトには直近9冊の感想記を公開し、「橘玲」のタグもある。9冊と印象記の見出しを並べると―

お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方 (2002年2月)
 現実主義と本音 経済原理に新世界か
雨の降る日曜は幸福について考えよう (2004年9月)
 バブル後のクールな経済・幸福論
大震災の後で人生について語るということ (2011年7月)
 幸福への理論と投資術 震災うけ練り直し

 <▲本棚の橘玲コーナー>

言ってはいけない (2016年4月)
 建前なしの潔さ 立ち尽くすしかない
朝日ぎらい (2018年9月)
 きれいごとへの嫌悪 「リベラル」への懐疑
もっと言ってはいけない (2019年1月)
 強烈なフレーズ 冷徹な裏打ち
無理ゲー社会(2021年8月)
 リベラル社会の知能格差 鋭利に冷徹に
バカと無知 (2022年10月)
 ひとの本性に鋭利なナイフ
世界はなぜ地獄になるのか (2023年8月)
 リベラル化の深い影 社会正義が生む狂気

 直近の評論はとくに冷徹で、容赦がない。ものごとの光より影に目が向かっていく。建前やきれいごとが大嫌い。本音でしか語らない—。

 でも、初めて読んだ小説は、そんな研ぎ澄まされたナイフを持つ作家が11年ぶりに書き下ろした長編だった。評論の切れ味を保ちながらも、ナイフの裏にはたっぷりと抒情も塗り込んでくれていた。ぼくはなぜか、ほっとした。