4 評論 時代を考える

橘玲『無理ゲー社会』

リベラル社会の知能格差 鋭利に冷徹に

 (小学館新書、2021年8月)

 だれもが自分らしく自由に生きられる「リベラル社会」が民主主義国で実現しつつあるが、実際は知能格差が拡大していて、学歴や資格で劣る若者が「攻略なんて無理なゲーム」を強いられて絶望しつつあると警告する。あとがきの最後も「わたしたちはこの『残酷な世界』を生き延びていくしかない」と厳しい。安直なきれいごとに逃げない姿勢は不変で、鋭利で冷徹な論理は今回もぼくの価値観を突き崩してきた。

< ▲ 特設カバーには刺激的な惹句が… >

■「きらい」朝日にインタビュー記事

<▲9/3朝日新聞朝刊(一部)>

 橘玲氏の著作を読むのはこの18年で7冊目となる。今回の新著はさる8月、東京五輪の直前に発売された時から気にはなっていた。読む気になったのは、9月3日の朝日新聞朝刊「交論」欄のインタビュー記事だった。

 「それって保守? リベラル?」というテーマで橘氏ら2氏が語っていた。もうひとりの政治学者は顔写真が載っていた。しかし橘氏はいつものイラストだけを載せ、下の略歴には「顔写真は非公表」とあった。

 橘氏は2018年の新書『朝日ぎらい』で、朝日が書くリベラル志向の記事はきれいごとばかりだから嫌われているなどと批判した。心の底ではリベラルな論調も残ってほしいという願望があるのでは、とぼくは深読みしたけれど、この記事を読んであたっていたかもしれないと思った。

■「リベラル能力資本主義」がもたらす格差

 その朝日インタビューで橘氏は『無理ゲー社会』で書いているのと同じ問題意識を語っている。ですます調でわかりやすいので共通する部分を抜き出すと—

 ・いまやリベラルでなければ、グローバル市場では生き残れません。
 ・リベラリズムの本質は、レディー・ガガが歌うように『自分らしく自由に生きる』という価値観でしょう。
 ・年齢、性別、人種などすべての差別がない社会では、集団の属性ではなく、公正で客観的な基準で評価するしかありません。この基準が学歴、資格、経験という『メリット』です。
 ・高学歴で高い能力を持つ者がエリートになる一方、知識社会に適応できない多くの人たちを生み出した。いわば「リベラル能力資本主義」です。
 ・とはいえ、わたしたちには代替プランはありません。

■きれいごと 真正面から粉砕

<▲特設カバーを外した表紙>

 この作家は徹底したリアリストだと思う。希望や願望にもとづく楽観やきれいごとを打ち砕いてきた。最新の知見や論文を引きながら—。

 ベストセラーになった『言ってはいけないー残酷過すぎる真実』や続編の『もっと言ってはいけない』は、その姿勢をより鮮明にした。近著の『上流国民/下流国民』はしっかり読めていないが、スタンスは同じだろう。

 この本での「残酷すぎる真実」をあぶりだす筆致は、もはや先鋭化した、といいたい水準まで進んでいる。『言ってはいけない』で示したデータを深掘りし、リベラル化がもたらす知能格差社会の影と闇を書き出していく。

■「無理ゲー」は「理不尽な人生」の象徴

 タイトルの「無理ゲー」はゲームマニアたちの用語で、攻略が極めて困難なゲームのことだという。IT社会の若者に深く浸透しているゲームの用語を現代社会論の真ん中にすえるところがこの作家らしい。

 「だれでも自分らしく生きられる」社会においては、人種や民族や国籍や性別・性的志向など本人が選択できない属性による選別は「差別」とみなされる。すると物差しは「メリット=学歴・資格・経験(実績)」になる。その場合の学歴や資格は、本人の努力で向上できることが大前提になっている。

<▲ 僕の本棚の橘玲コーナー>

 しかし橘氏によると、行動遺伝学の最新の知見はこの前提を覆す。ざっくりいうと▽知能は遺伝率が高い▽高学歴の同類婚によって高い知能が子どもに遺伝していく▽本人が努力すれば成績=知能は向上するというのは「教育神話」にすぎない—。この結果、高い知能とメリットをもつエリートと、そうでない大多数にわかれる。それが「リベラル能力資本主義」だ。

 そうした社会を筆者は、参加者の大半は成功の見込みがとぼしいゲームに見立てている。多くは「理不尽な人生」を強いられ、希望を見出せずに立ちつくしていると—。

■最新理論にも手厳しく

 新たな地平を切り開く知見はないのだろうか。そんな期待を抱いて「part4『ユートピアを探して』」に注目した。特に「『よりよい世界』を作る方法」に紹介された最新理論とその評価が興味深かった。忘備録を兼ね、ぼくが気になってきた3理論と筆者の評価を要約するとー

  • ユニバーサル・ぺーシック・インカム(UBI)
    最低所得補償制度。収入や資産にかかわらず国民に一律に毎月定額を支給する。橋本徹時代の「維新の会」が掲げて注目された。橘氏は「致命的な欠陥は誰に支給するのか」だとし、移民も含めたら対象が膨らみグロテスクな排外主義にたどりついてしまうと警告している。
  • 現代貨幣理論(MMT)
    主権通貨を発行する政府は破産しえないので、無制限に財政を拡張できる、という理論。橘氏は①米ドル前提の理論で他通貨にそのまま適用できない②「主権」の強弱は米ドル→ユーロ・人民元→ポンド・日本円という落差があり、日本円は「主権通貨」の座から滑り落ちているのかもしれない③この理論が属するマクロ経済学そのものが「科学」から脱落しつつある—と疑問を呈している。
  • 共同所有自己申告税(COST : common ownership self-assessed tax )
    すべての私有財産に定率の税をかける。米国の政治経済学者が提唱する理論。橘氏は①あらゆるモノは「使用する価値」だけで判断されるようになる②市場原理を徹底することで自由な社会を残してまま共産主義に至る可能性―と評価しつつも、まだラディカルな理論にとどまっている。

 うーん、残念だけど、どうやら橘氏も、知的格差社会の問題を解決できるような知見とか特効薬を見出しかねている。

■「残酷な世界」と「犠牲」

 前文でも書いたように本書は次の一文で終わる。再掲しよう。

 わたしたちは、なんとかしてこの「残酷な世界」を生き延びていくほかはない。

 壮烈な覚悟だ。ぼくは、ひとつ前のページにある次の文章についても考えこんでいる。

 あなたがいまの生活に満足しているとしたら素晴らしいことだが、その幸運は「自分らしく生きる」特権を奪われたひとたちの犠牲のうえに成り立っている。

 ぼくはいまの生活に満足している。でも、だれかの犠牲の上に成り立っている、という自覚はなかった。ただ1952年の生まれだから、そこそこリベラルな社会で育ったという自覚はある。ぼくの周辺に「満足できていない人」が過去にいたり、いまもいるだろうことも想像はできる。

 しかし、その満足できてない人たちが理不尽なゲームを強いられてきて、ぼくの「幸運」は多くの「不幸」と表裏になっている、という解釈には実感がともなわない。人生ってそんな簡単に白黒がつくような構造にはなっていない、という信念もある。

 でもこうも考える。ぼくが見ようとしていない、あるいは見たくないから橘氏の書く「不都合な真実」を実感できないのかもしれない。あるいは、この数十年でリベラル化と知能格差がうんと進み、ぼくには見えなくても、現代の若者たちの多くは本能的に気づいているのかもしれない。そうだとしたら、つらくて重い。

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